郷土ゆかりの文豪①

郷土ゆかりの文豪
 人には大抵、それぞれ故郷があります。現代においては恐らく、生を受けた地だけで育ち、生涯を終える人は極めて稀でしょう。そのため、第二の故郷があり、人それぞれに想い入れの深い、ゆかりの地がある人も少なくないでしょう。そして、いつの時代でも故郷には人それぞれに、かけがえのない想い出があり、いまどこにいても、その「郷土」には自ずと親近感や懐かしさを覚えるものです。
そんな“思い”は郷土ゆかりの人物に対しても同様です。名所・旧跡を訪ねる旅の中で、そんな各地の郷土ゆかりの文豪たちの足跡をたどってみるのも楽しいものです。作品の舞台や、その作家の人物記念館などを巡ると、もう一度改めてその作品を読み返してみたくなるかも知れません。
 今回、明治以降、近・現代に活躍した、あるいは今も活躍しつつある小説家・詩人・学者など文豪200余名の業績はじめ、その生誕地や、記念館などが設けられているゆかりの場所をも含め、ご紹介します。

北海道
・井上靖(1907~1991年)

 作家。北海道旭川町(現在の旭川市)生まれ。1908年、父が韓国に従軍したので、母の郷里、静岡県伊豆湯ヶ島(現在の伊豆市湯ヶ島)へ戻る。12年、両親と離れ湯ヶ島で戸籍上の祖母かの、に育てられる。九州帝国大学法文学部へ入学するが中退。京都帝国大学文学部哲学科へ入学、卒業。36年、毎日新聞大阪本社へ入社し、学芸部に配属される。日中戦争に応召され出征するが、翌年病気のため除隊され、学芸部へ復帰。部下に山崎豊子がいた。
 50年「闘牛」で第22回芥川賞を受賞。51年毎日新聞社を退社、以後、創作の執筆活動に入る。58年「天平の甍」で芸術選奨文部大臣賞。59年「氷壁」で芸術院賞。60年「敦煌」「楼蘭」で毎日芸術大賞。61年「淀どの日記」で第12回野間文芸賞。64年「風濤」で第15回読売文学賞。69年「おろしや国酔夢譚」で第1回日本文学大賞、ポルトガル・インファンテ・ヘンリッケ勲章を受章。81年仏教文化賞、「本覚坊遺文」で日本文学大賞。86年、北京大学より名誉博士号を授与される。89年「孔子」で第42回野間文芸賞。
 小説は中間小説を含めて、知識人の孤独な魂を抒情豊かに描き①現代を舞台とするもの②日本、中国の歴史に取材したもの③自伝的色彩の強いもの-に大別される。このほか、主な作品に「あすなろ物語」「黒い潮」「蒼き狼」「しろばんば」「後白河院」「額田女王」「あした来る人」「戦国無頼」「射程」など多数。
【記念館】井上靖記念館(北海道旭川市春光5条7丁目5番41号)
     アジア博物館・井上靖記念館(鳥取県米子市大篠津町)
     井上靖文学館(静岡県駿東郡長泉町)

  北海道立文学館(札幌市中央区中島公園1番4号)
   北海道出身者や北海道にゆかりの深い文学者に関する文学資料が展示されています。常設展は、直筆原稿や書簡、初版本など文学資料約1800点を展示し、北海道文学の流れを分かりやすく紹介しています。

青森県
・太宰治(1909~1949年)

 作家。青森県北津軽郡金木村(現在の青森県五所川原市)生まれ。生家は大地主。本名は津島修治。小説家の津島佑子は次女。30年、フランス語を知らないままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文科に入学する。だが講義内容が理解できず、授業に出ず左翼運動にのめり込む。小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。大学は留年を繰り返した後、授業料未納で除籍処分に。大学在学中、人妻と鎌倉の海に投身するが人妻だけ死亡、太宰は生き残った。
 35年「逆行」を「文藝」に発表。同人誌以外の雑誌に初めて発表したこの作品で第1回芥川賞候補となった。佐藤春夫に師事。36年、処女短編集「晩年」を刊行。翌年、女性と自殺未遂。1年間休筆の後「姨捨て」で復活。
 39年の生涯で4回の自殺未遂を繰り返し、48年、玉川上水で愛人、山崎富栄との入水心中により生命を絶った。2人の遺体が発見された6月19日に因み、また、この日は太宰の誕生日でもあったため、この日を「桜桃忌(おうとうき)」とした。朝日新聞に連載中のユーモア小説「グッド・バイ」が遺作となった。坂口安吾、檀一雄、織田作之助などとともに、無頼派の一人に数えられる。主な作品は「富嶽百景」「斜陽」「人間失格」「ヴィヨンの妻」「桜桃」「虚構の彷徨」「ダス・ゲマイネ」「愛と美について」「女生徒」「皮膚と心」「思ひ出」「走れメロス」「女の決闘」「東京八景」「新ハムレット」「千代女」「風の便り」「正義と微笑」「女性」「右大臣実朝」「佳日」「津軽」「新釈諸国噺」「惜別」「お伽草紙」「パンドラの匣」など多数。
  【記念館】太宰治記念館「斜陽館」(青森県五所川原市金木町朝日山412-1)

岩手県
・石川啄木(1886~1912年)

 歌人・詩人・評論家。岩手県南岩手郡日戸村(現在の盛岡市)生まれ。曹洞宗日照山常光寺の住職の長子として生まれる。本名は石川一(はじめ)。1887年、父が渋民村(現在の盛岡市玉山区渋民)にある宝徳寺住職に転任したのに伴って一家で渋民村へ移住する。岩手県盛岡中学(現在の盛岡一高)で学ぶ。この中学時代に後に妻となる堀合節子や親友の金田一京助、岡山不衣らと知り合う。「明星」で与謝野晶子らの短歌に傾倒、また上級生の野村長一(後の野村胡堂)らの影響を受け、文学への志を抱く。  1902年、中学を退学し、文学で身を立てる決意をして上京。雑誌「明星」への投稿でつながりのあった新誌社の集まりに参加、与謝野夫妻を訪ねる。ただ、出版社への就職は叶わず、結核を発病し、03年故郷へ帰る。文学への思いは熱く「岩手日報」に評論を連載、「明星」に短歌を発表し、新誌社同人となる。この頃から啄木のペンネームを使い始め、「明星」に長詩「愁調」を掲載、歌壇で注目される。
主な作品に「一握の砂」「悲しき玩具」「足跡」「雲は天才である」「火星の芝居」「氷屋の旗」「葬列」「鳥影」「初めて見たる小樽」「病院の窓」「漂泊」「二筋の血」「弓町より」などがある。
【記念館】石川啄木記念館(岩手県盛岡市玉山区渋民字渋民9)
     石川啄木函館記念館(啄木浪漫館)(北海道函館市日乃出町25-4)
     小樽文学館(北海道小樽市色内1-9-5)

・宮沢賢治(1896~1933年)  詩人・童話作家・農業指導家・教育者。岩手県稗貫郡里川口村(現在の花巻市)生まれ。質・古着商を営む家で弟1人・妹3人の長男。郷土、岩手を深く愛し、作品中に登場する架空の地名、理想郷を「岩手(いはて)」をエスペラント風にしたイーハトヴ(Ihatov)(あるいはイーハトーブ)などと名付けた。1915年盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)へ首席で入学。18年卒業、研究生となる。20年研究生を卒業。関豊太郎教授からの助教授推薦の話を辞退。21年、稗貫農学校(現在の花巻農業高等学校)教師となる。26年、稗貫農学校を退職。羅須地人協会を設立し、農民芸術を説いた。
 生前に刊行された唯一の詩集として自費出版した「春と修羅」、同じく童話集として「注文の多い料理店」がある。また、「グスコーブドリの伝記」「やまなし」など生前、雑誌や新聞に投稿・寄稿した作品も少ないがある。しかし、その多くの作品は彼の死の直後から主に草野心平の尽力により刊行された。    賢治の作品の底流に流れているものは作者自らの裕福な出自と、郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ贖罪感や自己犠牲精神とでも呼ぶべきものだ。また、特筆すべきは作者の特異で旺盛な自然との交感力だ。それは、作品に極めて個性的な魅力を与えているといえる。
 主な作品は「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」「どんぐりと山猫」「よだかの星」「カイロ団長」「ツェねずみ」「ビジテリアン大祭」「雁の童子」「土神ときつね」「マリブロンと少女」「なめとこ山の熊」「セロ弾きのゴーシュ」などがある。
【記念館】宮沢賢治記念館(岩手県花巻市矢沢1-1-35)

山形県
・斎藤茂吉(1882~1953年)

 歌人、精神科医。山形県南村山郡金瓶村(現在の上山市金瓶)生まれ。旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)第三部卒業。東京帝国大学医科大学(現在の東大医学部)医学科卒業。伊藤左千夫門下。大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。生涯に全17冊の歌集を発表し、全1万7907首の歌を詠んだ。長男に斎藤茂太、次男に北杜夫がいる。生家の守谷家には茂吉が小学校卒業後に進学するだけの経済面の余裕がなく、茂吉は画家になるか寺に弟子入りしようと考えたが、親戚で浅草の医師の斎藤紀一の家に養子に入ることになった。
 1905年、正岡子規の「竹の里歌」に出会い、作歌を志す。1906年伊藤左千夫の門下となる。1911年、東大教室と巣鴨病院に勤務するかたわら「アララギ」の編集を担当。1917年、官立長崎医学専門学校(現在の長崎大学医学部)教授。1921年、欧州留学に出発(ウィーン大学およびミュンヘン大学に4年間留学)。1924年、医学博士の学位を得て帰国の途に就く。1925年、帰国。
 以後、青山脳病院院長を務めながら歌集・歌論・随筆の創作および執筆活動を続けた。1940年「柿本人麿」で帝国学士院賞受賞、1950年、歌集「ともしび」で第1回読売文学賞詩歌賞受賞、1951年、文化勲章受章。
 代表的な作品に歌集で「赤光」「あらたま」「朝の蛍」「つゆじも」「遠遊」「遍歴」「ともしび」「たかはら」「連山」「石泉」「白桃」「晩紅」「寒雲」「のぼり路」「霜」「小園」「白き山」「つきかげ」、歌論・随筆で「短歌私抄」「金塊集私抄」「念珠集」「新選秀歌百首」「柿本人麿」「万葉秀歌」「伊藤左千夫」「源実朝」「万葉の歌境」「島木赤彦」「幸田露伴」「明治大正短歌史」など多数。
【記念館】斎藤茂吉記念館(山形県上山市北町字弁天1421)

宮城県
・志賀直哉(1832~1971年)

 小説家。宮城県石巻市生まれ。東京帝国大学国文科中退。推敲を尽した簡潔な文体は、無駄のない文章として大正から昭和にかけて多くの文学者に大きな影響を及ぼし、“小説の神様”とも称された。白樺派を代表する小説家のひとり。著者唯一の長編「暗夜行路」(1921~1937年)は近代日本文学の代表作の一つに挙げられ、大岡昇平は近代文学の最高峰であると称えている。
生涯26回の転居をしているが、戦前は我孫子、京都、奈良などに住み、美術に造詣を深め、美術図録「座右宝」を自ら編集し刊行した。彼に師事する作家として滝井孝作、尾崎一雄、小林秀雄、藤枝静雄、網野菊、阿川弘之らがいる。
主な作品として「網走まで」「大津順吉」「清兵衛と瓢箪」「城の崎にて」「和解」「焚火」などがある。1949年、谷崎潤一郎とともに文化勲章受章。
 現在、奈良県奈良市高畑町に旧邸宅が「志賀直哉旧居」として保存されており、見学することができる。ここで志賀は10年間、家族とともに過ごした。また、ここは「高畑サロン」と呼ばれ、白樺派の文人、画家・文化人らが訪れ、さながら文化サロンだった。
【記念館】高畑サロン(志賀直哉旧居)(奈良市高畑大道町1237-2)
     おのみち文学の館(志賀直哉旧居)(尾道市東土堂町8-28)
     城崎町文芸館(兵庫県豊岡市城崎町湯島357番地の1)
白樺派文学記念館は http://www.shirakaba.ne.jp/

新潟県
・坂口安吾(1906~1955年)

 小説家・エッセイスト。新潟市西大畑町生まれ。本名は炳吾(へいご)。13人兄弟の12番目。名前の由来は「丙午」年生まれの「五男」に因んだもの。坂口家は代々の旧家、大地主の富豪。東洋大学文学部印度哲学倫理科卒業。純文学のみならず歴史小説、推理小説、文芸エッセイまで幅広く活動した・終戦直後発表した「堕落論」などにより時代の寵児となった。無頼派と呼ばれた作家の一人。
 幼少時はガキ大将、立川文庫の「猿飛佐助」を愛読。東京の私立豊山中学校(現在の日本大学豊山高校)時代からオノレ・ド・バルザック、谷崎潤一郎などの小説を読み、反抗的な落伍者への畏敬の念が強くエドガー・アラン・ポー、シャルル・ボードレールなどに影響を受けた。石川啄木、北原白秋などを愛読、短歌をつくり、また仏教にも関心を寄せた。  主な作品に小説で「白痴」「吹雪物語」「桜の森の満開の下」「信長」「二流の人」、評論で「堕落論」「続堕落論」「日本文化私観」「文学のふるさと」「教祖の文学」「安吾巷談」などがある。
 坂口安吾生誕の地、新潟市は「安吾賞」を創設している。

群馬県
・萩原朔太郎(1886~1942年)

 詩人・作家。群馬県東群馬郡北曲輪町(現在の前橋市千代田町)で開業医の長子として出生。慶應義塾大学予科中退。北原白秋に師事し、1917年に刊行した処女詩集「月に吠える」で全国に名を知られるようになる。
 旧制県立前橋中学校(現在の群馬県立前橋高等学校)の在学中に「野守」という回覧雑誌を編集して短歌を発表した。1907年第五高等学校に入学し、翌年第六高等学校に転校するが、チフスで中退。1910・1911年の2度にわたり慶應義塾大学予科に入学するが、どちらも短期間で退学した。  1919年結婚し2女をもうけるが、10年間で離婚。1938年再婚するが、今度はわずか1年余りで離婚した。1942年、随筆「帰郷者」で北村透谷賞を受賞。詩のほかに、比留間賢八にマンドリンを習い、マンドリン倶楽部を作るなど音楽も志し、手品を楽しむというハイカラな面もあった。また、大のミステリーファンとして知られており、自分で執筆こそしなかったものの、江戸川乱歩の著した「パノラマ島奇譚」を取り上げ、いち早く激賞の評論を書いた。このほか、作曲もいくつか試みており、室生犀星の詩による合唱曲「野火」などが残されている。
 主な作品に、「月に吠える」と並ぶ代表作の「青猫」ほか「蝶を夢む」「氷島」「定本青猫」「宿命」などの詩集、随筆で「詩論と感想」「純正詩論」「廊下と室房」「詩人の使命」「無からの抗争」「日本への回帰」「阿帯」、詩歌論で「詩の原理」「恋愛名歌集」「郷愁の詩人与謝蕪村」などがある。
【記念館】萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち 前橋文学館(前橋市千代田町3丁目12番10号)
     萩原朔太郎記念館(前橋市敷島町262敷島公園ばら園内)

茨城県
・長塚節(1879~1915年)

 歌人。茨城県岡田郡国生村(現在の常総市国生)の豪農の家に出生。茨城県尋常中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)に入学したが、4年進級後に脳神経衰弱のために退学。郷里の自然に親しみつつ療養、文学への関心を高めていった。
 19歳のとき、正岡子規の写生説に共感し、21歳で子規を直接訪ね、入門。「アララギ」の創刊に携わった。万葉の短歌の研究と作歌に励んだが、子規の没後もその写生主義を継承した作風を発展させた。また、散文の制作も手がけ、写生分を筆頭に数々の小説を「ホトトギス」に掲載。「東京朝日新聞」に連載した長編「土」は代表作となった。当時の農村の写実的描写が見事なこの作品によって、農民小説のさきがけの一人として知られるようになった。
 正岡子規の正当な後継者といわれている。現在、常総市では短編小説・短歌・俳句の三部門について長塚節文学賞が隔年で実施されている。題材に長塚節を取り上げた作品として藤沢周平の「白き瓶-小説・長塚節」がある。

千葉県
・伊藤左千夫(1864~1913年)

 歌人・小説家。上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)の農家に出生。本名は幸次郎。明治法律学校(現在の明治大学)中退。
 1898年、新聞「日本」に「非新自讃歌論」を発表。正岡子規の「歌よみに与ふる書」に感化され師事。子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌「馬酔木」「アララギ」の中心となって、斎藤茂吉、土屋文明などを育成した。また、1905年には子規の写生文の影響を受けた小説「野菊の墓」を「ホトトギス」に発表。夏目漱石に評価される。
 代表作に「隣の嫁」「春の潮」などがある。
 山武市歴史民俗資料館には『野菊の墓』初版本や自筆の原稿など伊藤左千夫に関する資料が多く展示され、その横には左千夫の生家が ある。
【記念館】歴史民俗資料館(千葉県山武市殿台343番地2)

東京都
・芥川龍之介(1892~1927年)

 小説家。東京市京橋区入船町生まれ。号は澄江堂主人、俳号は我鬼。東京帝国大学英文科卒。11歳のとき、叔父の養子となり芥川姓に。戸籍上の正しい名前は「龍之介」だが、養家や中学、高校、東京帝国大学の関係名簿類では「龍之助」になっている。本人が「助」を嫌い、「介」に変えたとみられる。
東大在学中の1914年、菊池寛、久米正雄らとともに同人誌「新思潮」(第三次)を刊行。15年「帝国文学」に「羅生門」を発表。級友、鈴木三重吉の紹介で夏目漱石門下に入る。作品は短編で「芋粥」「藪の中」「地獄変」「歯車」など、「今昔物語集」「宇治拾遺物語」などの古典から題材を取ったものが多い。「蜘蛛の糸」「杜子春」など童話も書いた。
 27年7月24日、友人に宛てた遺書「ただぼんやりした不安」との理由を残し、35歳の若さで服毒自殺した。命日は芥川の小説「河童」から取って『河童忌』と称される。
 芥川の死から8年後、親友で文藝春秋社主の菊池寛が芥川の名を冠した新人文学賞「芥川龍之介賞」を設けた。その芥川賞は、直木賞と並ぶ文学賞として現在まで続いている。
・有島武郎(1878~1923年)
 小説家。東京小石川(現在の文京区)生まれ。旧薩摩藩士、大蔵官僚の子として出生。画家の有島生馬、作家の里見弴は弟。学習院中等全科を卒業後、農学者を志して札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受ける。この時の校長は新渡戸稲造。1903年渡米。ハバフォード大学大学院、さらにハーバード大学で学び、社会主義に傾倒。西欧文学、西洋哲学の影響を受けた。ヨーロッパにも渡り、1907年帰国。帰国後、志賀直哉、武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加。「かんかん虫」「お末の死」などを発表。白樺派の中心人物の一人として小説や評論に活躍。1916年、妻と父を亡くすと本格的な作家生活に入り「カインの末裔」「生まれ出づる悩み」「迷路」を書き、1919年に代表作「或る女」を発表。
1923年、婦人公論記者で、人妻の波多野秋子と知り合い6月、軽井沢の別荘(浄月荘)で心中した。梅雨時、1カ月経過して発見された際は遺体の腐乱がひどく、遺書があったためようやく本人と確認できたといわれる。
このほかの作品に小説で「凱旋」「骨」「文化の末路」「星座」、評論で「惜みなく愛は奪ふ」「宣言一つ」「二つの道」、童話で「一房の葡萄」「溺れかけた兄弟」などがある。 【記念館】北海道立文学館(北海道札幌市中央区中島公園1-4)

・高村光太郎(1883~1956年)
 彫刻家、評論家・詩人。本名は光太郎と書いて「みつたろう」。本職は彫刻家・画家だが、「智恵子抄」などの詩集が広く読まれ有名になったため、詩人として認識されることも多い。評論や随筆、短歌の著作もある。彫刻家、高村光雲の3兄弟の長男。
東京美術学校(現在の東京藝術大学)彫刻家を卒業。卒業後、研究科に進み、さらに西洋画科に再入学したがまもなく退学。岩村透の勧めで1906年、彫刻を学ぶため留学に出発。ニューヨークに1年間、その後ロンドンに1年間、パリに9カ月滞在し、1909年に帰国。旧態依然とした日本の美術界に不満を持ち、ことあるごとに父に反抗し、東京美術学校の教職も断った。一方、パンの会に参加し、「スバル」などに美術批評を寄せた。1910年に発表した「緑色の太陽」は芸術の自由を宣言した評論。
 1914年、詩集「道程」を出版。同年、長沼智恵子と結婚。1929年に智恵子の実家が破産、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり、後に統合失調症を発病した。1938年、智恵子と死別。1941年、詩集「智恵子抄」を出版。智恵子の死後、戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表した。1945年5月、岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六(宮沢賢治の弟、その家は賢治の実家)方に疎開。しかし、同年8月に宮沢家も空襲で被災し、辛うじて助かる。終戦後の10月、花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)の粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送る。これは戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から出た行動だったとみられる。
 1950年、戦後に書かれた詩を収録した詩集「典型」を出版。第2回読売文学賞を受賞。1952年、青森県から十和田湖畔の記念碑の作成を委嘱され、これを機に小屋を出て東京・中野区のアトリエに転居し、記念碑の塑像(裸婦像)を制作、翌年完成させた。
 主な作品は、彫刻で「手」「裸婦坐像」「裸婦像」「乙女の像」、詩集で「道程」「智恵子抄」「をぢさんの詩」「記録」「典型」「暗愚小伝」、歌集で「白斧」、美術評論で「印象主義の思想と芸術」「美について」「造形美論」、随筆で「独居自炊」「山の四季」、翻訳で「ロダンの言葉」「天上の炎」などがある。 【記念館】高村記念館(岩手県花巻市太田3-91-3)

・谷崎潤一郎(1886~1965年)
小説家。東京日本橋蛎殻町生まれ。東京帝国大学文科大学国文科に進むが、後に学費未納で中退。在学中に和辻哲郎らと第2次「新思潮」を創刊し、処女作「誕生」(戯曲)や小説「刺青」(1909年)を発表。早くから永井荷風により「三田文学」誌上で激賞され、文壇において一躍新進作家としての地歩を固めた。 
 関東大震災後、谷崎は関西に移住しこれ以降、再び旺盛な執筆に努め、次々と佳品を生み出した長編「痴人の愛」では妖婦ナオミに翻弄される男の悲喜劇を描いて大きな反響を呼んだ。続けて「卍」「蓼喰う虫」「春琴抄」「武州公秘話」などを発表し大正期以来のモダニズムと中世的な日本の伝統美を車の両輪として文学活動を続けていく。
 世間にセンセーショナルな反響を呼び起こした佐藤春夫との“細君譲渡事件”、2度目の結婚・離婚を経て1935年に3度目の夫人、森田松子と結婚する。  戦争中、谷崎は松子夫人とその妹たちとの生活を題材にした「細雪」に取り組み、軍部による発行差し止めに遭いつつも執筆を続け、戦後その全編を発表する。この作品により、毎日出版文化賞、朝日文化賞を受賞。さらに、その後も迫りくる老いと戦いながら「鍵」、「瘋癲老人日記」(毎日芸術大賞)といった傑作を執筆した。「源氏物語」の現代語訳にも取り組んだ。
 戦後の代表作としては母恋いと近親相姦的愛欲の系譜である「少将滋幹の母」(1949年)、「夢の浮橋」(1959年)、また「鍵」(1956年)は抑圧される性欲を男女の三角関係をテーマにし、「卍」「蓼喰う虫」の系譜の総決算といえる。
 ノーベル文学賞の候補となっただけでなく、1964年に日本人で初めて全米芸術院・米国文学芸術アカデミーの名誉会員に選出された。
【記念館】芦屋市谷崎潤一郎記念館(兵庫県芦屋市伊勢町12-15)
     倚松庵(いしょうあん)(神戸市東灘区)『細雪』執筆時の旧居

・永井荷風(1879~1959年)
 小説家。東京市小石川区金富町で愛知県士族内務省衛生局事務取扱の永井久一郎、つねの長男として出生。本名は壯吉(そうきち)。号は断腸亭主人、金阜山人。耽美的な作風で明治から昭和にかけて活躍した。
 1897年、高等商業学校附属外国語学校清語科に入学、のち除籍に。1898年「簾の月」を携えて広津柳浪に入門。1899年、落語家、朝寝坊むらくの弟子となり三遊亭夢之助の名で席亭に出入りする。しかし、父の反対で落語家修行を断念する。1900年、歌舞伎劇作者、福地桜痴の門下となった。1901年、日出国新聞に転じた桜痴戸ともに入社し雑誌記者となる。5カ月後解雇される。フランス語の初歩を学び、ゾラの作品を読み感動する。1902年「地獄の花」を刊行、ゾライズムの作風を深めた。父の勧めで渡米。ワシントンの日本公使館、横浜正金銀行ニューヨーク支店、そして正金銀行リヨン支店に転勤、約5年間にわたり海外生活を送る。1908年「あめりか物語」を発表。「ふらんす物語」が刊行直前に発禁となる。1910年、慶應義塾大学文学科刷新に際し教授に就任。「三田文学」を創刊、主宰した。1916年、慶応義塾を辞め「三田文学」から手を引く。
 1917年、日記の執筆を再開(「断腸亭日乗」のペンネームの活動の始まり)。
 1952年、文化勲章を受章。
 上記以外の主な作品に「冷笑」「すみだ川」「珊瑚集」「日和下駄」「腕くらべ」「おかめ笹」「つゆのあとさき」「濹東綺譚」「断腸亭日乗」などがある。また、「濹東綺譚」は1960年と1992年の2度にわたり映画化されている。

・夏目漱石(1867~1916年)
 小説家・評論家・英文学者。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)生まれ。本名は金之助。俳号は愚陀仏。森鷗外と並ぶ明治・大正時代の大文豪。大学時代に正岡子規と出会い俳句を学ぶ。東京帝国大学英文科卒業後、松山中学などの教師を務めた後、イギリスへ留学。帰国後、東大講師として勤務するかたわら、「吾輩は猫である」を雑誌「ホトトギス」に発表。これが評判になり「坊ちゃん」「倫敦塔」などを書く。その後、朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。このほか、主な作品に「こころ」「行人」「門」「道草」「草枕」「彼岸過迄」「それから」など多数。
【記念館】夏目漱石記念館(夏目漱石旧居)(熊本市内坪井町4-22)
     倫敦漱石記念館 http://www.soseki.org/

・樋口一葉(1872~1896年)
 小説家・歌人。東京府第二大区一小区内幸町の東京府庁構内(現在の東京都千代田区)生まれ。2004年から5000円札の肖像に採用されている。一葉は雅号。戸籍名は奈津。なつ、夏子とも呼ばれる。歌人としては夏子、小説家として一葉、新聞小説の戯号は浅香のぬま子、春日野しか子として筆名を使い分けている。幼少時代から読書を好み、草双紙の類を読み、7歳のとき曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」を読破したと伝えられる。私立青海学校高等科第四級を首席で卒業するが、母親が女性に学業は不要だと考えていたため、上級に進まず退学。
 中島歌子に歌、古典を学び、半井桃水(なからいとうすい)に小説を学ぶ。生活に苦しみながら「たけくらべ」「十三夜」「にごりえ」などの秀作を発表。文壇から絶賛される。一葉の家庭は転居が多く、生涯に12回の引越しをした。
 このほかの作品に「大つごもり」「ゆく雲」「琴の音」「やみ夜」「われから」などがある。
【記念館】一葉記念館(東京都台東区竜泉3丁目18番4号)

・武者小路実篤(1885~1976年)
 小説家。現在の東京都千代田区に江戸時代以来の公卿の家系である武者小路家に子爵・武者小路実世の第8子として出生。位階は従三位。志賀直哉、有島武郎らと文学雑誌「白樺」を創刊。白樺派の精神的支柱だった。
学習院初等科、中等学科、高等学科を経て、1906年に東京帝国大学哲学科に入学。学習院の時代から同級生だった志賀直哉や木下利玄らと「一四日会」を組織する。同年、東大を中退。1908年、回覧雑誌「望野」を創刊。1910年、志賀直哉らと文学雑誌「白樺」を創刊。これに因んで白樺派と呼ばれる。トルストイに傾倒した。
 理想的な調和社会・階級闘争のない世界(ユートピア)の実現を目指して、1918年に宮崎県児湯郡木城町に「新しき村」を建設したが、1938年にダム建設により村の大半が水没したため、1939年、埼玉県入間郡毛呂山町に新たに「新しき村」を建設した。両村は現存する。ただ、実篤は1924年に離村し、村外会員となり“村民”だったのは、わずか6年だった。
 実篤は白樺派の思想代名詞的存在であり、理想主義・空想社会主義的行動が現実離れしていると揶揄の対象とする人も少なくない。また、上流階級の子弟にありがちな気紛れで無責任とも取れる言動も批判されたこともあった。
 1946年には貴族院議員に、1951年に文化勲章を受章。代表作に「お目出度き人」「その妹」「友情」「幸福者」「人間万歳」「友情」「或る男」「愛と死」「真理先生」などがある。
 晩年、盛んに野菜の絵に「仲良きことは美しき哉」などの文を添え、色紙を揮毫したことでも有名。
【記念館】武者小路実篤記念館(東京都調布市若葉町1-8-30)

神奈川県
・北村透谷(1868~1894年)

 詩人・評論家。神奈川県小田原で没落士族の家に出生。本名は門太郎。明治期に近代的な文芸評論を著し、島崎藤村らに大きな影響を与えた。幼少の頃、両親とともに上京し、東京の数寄屋橋近くの泰明小学校に通った。後の筆名・透谷はこの「すきや」をもじったものといわれる。東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学するが、中退。自由民権運動に参加したが、運動は次第に閉塞していく時期で、同志から活動資金を得るために強盗するという計画を打ち明けられて絶望し、運動を離れる。数寄屋橋協会で洗礼を受ける。
 1889年「楚囚の詩」、1891年荷「蓬莱曲」をそれぞれ自費出版した。1892年に評論「厭世詩家と女性」を「女学雑誌」に発表し、近代的な恋愛観を表明した。1893年に創刊された「文学界」誌上に「内部生命論」など多くの文芸評論を執筆した。
 透谷の作品群は、近代的な恋愛観からもうかがわれるように、ロマン主義的な「人間性の自由」という地平を開き、以降の文学に対し人間の心理、内面性を開拓する方向を示唆している。島崎藤村は「桜の実の熟する時」「春」において、透谷の姿を描いている。
1894年、芝公園で自殺。享年27歳。
三重県
・江戸川乱歩(1894~1965年)

 小説家・推理作家。三重県名賀郡右名張町(現在の名張市)生まれ。本名は平井太郎。筆名はアメリカの文豪、エドガー・アラン・ポーをもじったもの。日本推理作家協会初代理事長。正五位勲三等瑞宝章。3歳の頃、名古屋に移る。早稲田大学政治経済学部卒業。
 大学卒業後、貿易会社や古本屋などの仕事を経た後、1923年「新青年」に掲載された「二銭銅貨」でデビュー。初期は欧米の探偵小説に強い影響を受けた本格探偵小説を送り出し、黎明期の日本探偵小説界に大きな足跡を残した。一方で、草双紙、サディズム、グロテスク趣味などへの志向も強く、これを活かした通俗的探偵小説は昭和初期以降、一般大衆に歓迎されたが、反面、世間が乱歩の虚像を肥大化することを嫌い、本格作品執筆の意欲を失くした。このほか少年向けに明智小五郎と小林少年をはじめとする少年探偵団が活躍する「怪人二十面相」など数多くの作品を発表した。
戦後は評論家、プロデューサーとして活動。経営難に陥った探偵小説誌「宝石」の編集・経営に携わる。日本探偵作家クラブの創立と財団法人化に尽力。同クラブに寄付した私財100万円の使途として「江戸川乱歩賞」が制定され、同賞は第3回から長編推理小説の公募となった。
 主な作品に「恐ろしき錯誤」「双生児」「心理試験」「赤い部屋」「幽霊」「盗難」「白昼夢」「夢遊病者の死」「百面相役者」「屋根裏の散歩者」「一人二役」「疑惑」「人間椅子」「接吻」「闇に蠢く」「毒草」「覆面の舞踏会」「灰神樂」「火星の運河」「陰獣」「渦巻」「蜘蛛男」「魔術師」「盲獣」「鬼」「黒い虹」「黒蜥蜴」「地獄の道化師」「断崖」「女妖」「大江戸怪物団」「十字路」「ぺてん師と空気男」「妻に失恋した男」「指」「薔薇夫人」など多数。

岐阜県
・島崎藤村(1872~1943年)

 詩人・小説家。本名は春樹。木曽の馬籠(現在の岐阜県中津川市)生まれ。明治学院大学第一期卒業。「文学界」に参加し、浪漫派詩人として「若菜集」を刊行。後に詩人として土井晩翠と並称される。小説に転じ「破戒」「春」などで代表的な自然主義作家となった。
このほか、日本自然主義文学の到達点とされる「家」、姪との近親姦を告白した「新生」、父をモデルとした歴史小説「夜明け前」、短編集「緑葉集」「水彩画家」「食後」「嵐」「微風」、童話集「眼鏡」「ふるさと」「をさなものがたり」「幸福」、第二詩集「一葉舟」、第三詩集「夏草」、第四詩集「落梅集」、そして「仏蘭西だより」「浅草だより」「千曲川のスケッチ」など著書多数。
 藤村の詩のいくつかは歌としても親しまれている。詩集「落梅集」に収められている一節「椰子の実」は柳田国男が伊良湖の海岸(愛知県)に椰子の実が流れ着いているのを見たというエピソードを元に書いたもので、1936年、山田耕筰門下の大中寅二が作曲し、今日に至るまで愛唱されている。
【記念館】小諸市立藤村記念館(長野県小諸市丁311 懐古園内)
     城崎町文芸館(兵庫県豊岡市城崎町湯島357番地の1)

富山県
・堀田善衛(1918~1998年)

 作家。富山県高岡市出身。生家は伏木港の廻船問屋。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。大学時代は詩を書き、その方面で知られるようになる。戦争末期に国際文化振興会の上海事務所に赴任し、そこで終戦を迎え、国民党に徴用された。引き揚げ後、一時、新聞社に勤務したが、まもなく退社し作家としての生活に入る。
 1951年、「広場の孤独」で第26回芥川賞を受賞。1956年、アジア作家会議に出席のためインドを訪問、この経験を「インドで考えたこと」にまとめる。これ以後、諸外国をしばしば訪問し、日本文学の国際的な知名度を高めるために活躍。また、その中での体験に基づいた作品も多く発表し、欧米中心とは違う、国際的な視野を持つ文学者として知られるようになった。1971年、「方丈記私記」で毎日出版文化賞受賞。1977年「ゴヤ」完結後、スペインに居を構え、それからスペインと日本とを往復する生活を始めるスペインやヨーロッパに関する著作がこの時期には多い。同年、「ゴヤ」で大佛次郎賞・ロータス賞を受賞。1994年、「ミシェル城館の人」(全3巻)で和辻哲郎文化賞を受賞。同年、朝日賞受賞。
 既述以外の主な作品に「記念碑」「奇妙な青春」「河」「建設の時代」「上海にて」「香港にて」「スフィンクス」「キューバ紀行」「時間」「海鳴りの底から」「審判」「歴史と運命」「若き日の詩人たちの肖像」「美しきもの見し人は」「橋上幻像」「小国の運命・大国の運命」「あるヴェトナム」「航西日誌」「スペイン断章 歴史の感興」「スペインの沈黙」「路上の人」「聖者の行進」「定家名月記私抄」「歴史の長い影」「バルセローナにて」「めぐりあいし人びと」「未来からの挨拶」「時空の端ッコ」「故園風來抄」など多数。

石川県
・泉鏡花(1873~1939年)

 小説家・俳人。金沢市下新町生まれ。本名は鏡太郎。父・清次は工名を政光という加賀藩細工方の系譜に属する象眼細工・彫金の職人。尾崎紅葉に師事し、「夜行巡査」「外科室」で評価を得、「高野聖」で人気作家になる。江戸文芸の影響を受けた怪奇趣味と特有のロマンチシズムで知られる。また近代における幻想文学の先駆者としても評価される。代表作に「婦系図」「歌行燈」「夜叉ヶ池」などがある。
 16歳のころ、尾崎紅葉の「色懺悔」を読み衝撃を受け、文学を志すようになった。1891年牛込の尾崎紅葉宅を訪ね、快く入門を許されて尾崎家で書生生活を始める。以後、鏡花は尾崎家で原稿の整理や雑用にあたり紅葉の信頼を得る。鏡花にとって紅葉は最も敬愛する小説家、文学上の師であると同時に恩人だった。
 鏡花の作品は映画化されたり、舞台の演目に取り上げられてものも少なくない。「外科室」は1992年、歌舞伎役者の坂東玉三郎脚本・監督、吉永小百合、加藤雅也、鰐淵晴子、中井貴一らで映画化されているほか、「義血侠血」は新派劇の人気演目「瀧の白糸」の原作だ。また、「夜叉ヶ池」も小柳ルミ子主演で映画化されている。古くは「婦系図」は、舞台となった湯島天満宮の名を高くし、映画化もされ「湯島の白梅」は映画や主題歌の題名にも使われた。このほか代表作として「眉かくしの霊」「天守物語」「草迷宮」「貝の穴に河童の居る事」「線紅新草」などがある。
【記念館】泉鏡花記念館(石川県金沢市下新町2番3号)

・室生犀星(1889~1962年)
 詩人・小説家。金沢市生まれ。本名は照道。私生児として生まれ、生後まもなく生家近くの真言宗寺院雨宝院住職室生真乗の内縁の妻赤井ハツに引き取られ、照道の名で戸籍に登録された。住職の室生家に養子として入ったのは7歳のとき。実の両親の顔を見ることなく、生まれてすぐ養子に出されたことは犀星の生い立ちと文学に深い影響を与えた。お前はオカンボ(妾を意味する金沢の方言)の子だ-と揶揄された犀星は産みの母親にダブルバインド(二重束縛)を背負っていた。
 1902年、金沢市立長町高等小学校を中退し、金沢地方裁判所に給仕として就職。裁判所の上司に俳人がいたため俳句の手ほどきを受け、新聞への投句を始める。1904年「北国新聞」に投句が初掲載。このときの号は照文。その後、詩、短歌のどにも手を染める。犀星を名乗ったのは1906年から。1913年、北原白秋に認められ、白秋主宰の詩集「朱樂(ざんぼあ)」に寄稿。同じく寄稿していた萩原朔太郎と親交を持つ。1916年、萩原とともに同人誌「感情」を発行。1919年までに32号まで刊行した。同年、中央公論に「幼年時代」「性に目覚める頃」などを掲載、注文が来る作家になっていた。
1930年代から小説の多作期に入り、1934年「詩よ君とお別れする」を発表し、詩と決別を宣言したが、実際にはその後も多くの詩作を行っている。1935年「あにいもうと」で文芸懇話会賞を受賞。1941年菊池寛賞を受賞。戦後は小説家としての地位を確立し多くの秀作を生み出した。1958年、娘朝子をモデルとした半自伝的な長編「杏っこ」は読売文学賞、同年の評論「わが愛する詩人の伝記」は毎日出版文化賞を受賞。古典を基にした「かげろふの日記遺文」では野間文芸賞を受賞。この賞金から翌年、室生犀星詩人賞を設定。
 抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして恋しくうたふもの」の詩句が有名。
【記念館】室生犀星記念館(石川県金沢市千日町3-22)
     室生犀星記念館(室生犀星旧居)(長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢979-3)

大阪府
・川端康成(1899~1972年)

 小説家。大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)生まれ。東京帝国大学国文学科卒。菊池寛に認められて文壇入りした。新感覚派の代表として活躍。「伊豆の踊り子」「雪国」「千羽鶴」「古都」など日本の美を表現した作品を数多く発表し1968年、日本人初のノーベル文学賞を受賞した。
 2、3歳のときに父母を相次いで亡くし、祖父母と一緒に三島郡豊川村(現在の茨木市)に移った。7歳のときに祖母、9歳のとき祖父がそれぞれ死去するという不幸に見舞われた。中学校から寄宿舎で生活。作家を志したのは中学2年のとき。1916年から「京阪新報」や「文章世界」に投稿。1921年「新思潮」(第6次)を創刊、同年そこに発表した「招魂祭一景」が菊池寛らに評価され、1923年に創刊された「文藝春秋」の同人となった。大学に1年長く在籍したが、東京帝国大学国文科を卒業。卒業論文は「日本小説史小論」。
1924年、横光利一、片岡鉄平、中河与一、佐佐木茂索、今東光ら14人とともに同人雑誌「文藝時代」を創刊。同誌には「伊豆の踊り子」などを発表した。1926年、処女短編集「感情装飾」を刊行。1927年同人雑誌「手帖」を創刊し、のちに「近代生活」「文学」「文学界」の同人となった。「雪国」「禽獣」などの作品を発表し、1944年「故園」「夕日」などにより菊池寛賞を受賞。このころ三島由紀夫が持参した「煙草」を評価、文壇デビューさせたその師的存在といえる。
「千羽鶴」「古都」などの名作を上梓しながら、1948年に日本ペンクラブ第4代会長。1958年、国際ペンクラブ副会長に就任。1957年に東京で開催された国際ペンクラブ大会では、主催国の会長として活躍し、その努力で翌年、菊池寛賞を受賞した。1962年、世界平和アピール七人委員会に参加。1963年には新たにつくられた日本近代文学館の監事となった。1968年、ノーベル文学賞を受賞し、授賞式では「美しい日本の私 その序説」と題し記念講演を行った。1972年、逗子の仕事部屋でガス自殺。翌年、財団法人川端康成記念会によって川端康成文学賞がつくられ、1985年には茨木市立川端康成文学館が開館した。
 上記作品のほか「浅草紅団」「化粧と口笛」「水晶幻想」「純粋の声」「花のワルツ」「むすめごころ」「乙女の港」「寝顔」「愛する人達」「哀愁」「舞姫」「求婚者」「山の音」「みづうみ」「東京の人」「富士の初雪」「温泉宿」「眠れる美女」「美しさと哀しみと」「片腕」「美の存在と発見」「竹の声桃の花」「日本の美のこころ」など多数。

・三好達治(1900~1964年)
 詩人。大阪市出身。東京帝国大学文学部仏文科卒。彼の墓は大阪府高槻市の本澄寺にある。彼の甥(住職)によって、境内の中に三好達治記念館が建てられている。
 当初、職業軍人への道を歩み陸軍士官学校に進むが、脱走事件を起こして退学処分となり、京都三高文科に入学。三高時代はニーチェやツルゲーネフを耽読し、丸山薫の影響で詩作を始める。大学在学中に梶井基次郎らとともに、同人誌「青空」に参加。その後、萩原朔太郎と知り合い、詩誌「誌と詩論」創刊に携わる。シャルル・ボードレールの散文詩集「巴里と憂鬱」の全訳を手がけた後、処女詩集「測量船」を刊行。叙情的な作風で人気を博す。
 1953年に「駱駝の瘤にまたがって」で芸術院賞、1963年に読売文学賞受賞。
 詩集で「閒花(かんか)集」「山果集」「艸(くさ)千里」「一点鐘」「捷報いたる」「覇旅十歳」「花筐(はながたみ)」「南窗(なんそう)集」「朝菜集」「春の旅人」「故郷の花」「百たびののち」「霾(ばい)」「砂の砦」「日光月光集」「寒析」、随筆で「路傍の花」「月の十日」「卓上の花」「風薫々」「屋上の鶏」「草上記」、詩歌論で「諷詠十二月」「詩を読む人のために」「俳句鑑賞」「萩原朔太郎」などがある。

・与謝野晶子(1878~1942年)
 歌人・作家・思想家。旧姓は鳳(ほう)。戸籍名は「志よう」。ペンネームの「晶子」はこの「しよう」から取ったもの。夫は与謝野鉄幹。堺市(現在の堺市堺区)甲斐町生まれ。堺の老舗和菓子屋「駿河屋」の3女。堺女学校(現在の大阪府立泉陽高校)に入学すると「源氏物語」など古典に親しんだ。また、兄の影響で尾崎紅葉、幸田露伴や樋口一葉の小説も愛読した。20歳ごろから店番をしながら和歌を投稿。浪華青年文学会に参加。
1900年に与謝野鉄幹が創立した新詩社の機関誌「明星」に短歌を発表。翌年、家を出て上京。女性の官能を大胆に謳う処女歌集「みだれ髪」を刊行し、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立。のちに鉄幹と結婚した。1904年「明星」に「君死にたまふことなかれ」を発表。1911年には史上初の女性文芸誌「青鞜」創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿した。
 晶子の声望が高まる一方で、鉄幹の詩の売れ行きは悪く、子だくさんの家計のやりくりには苦慮。鉄幹が大学教授の職に就くまでは、彼女が孤軍奮闘、一家を支えた。そのため依頼があればすべて引き受け、歌集の前払いをしてもらっていたケースも少なくなかったといわれる。その結果、残した歌は5万首にも及ぶ。
 このほか、「小扇」「恋衣」「舞姫」「夢之華」「常夏」「佐保姫」「春泥集」「青海波」「夏より秋へ」「さくら草」「火の鳥」「太陽と薔薇」「流星の道」「白桜集」、そして現代語訳「全訳源氏物語」「蜻蛉日記」「愛 理性及び勇気」「女人創造叢書 女性論」「私の生ひ立ち」「童話 環の一年間」などがある。
【記念館】城崎町文芸館(兵庫県豊岡市城崎町湯島357番地の1)

和歌山県
・佐藤春夫(1892~1964年)

 小説家・詩人。和歌山県東牟婁郡新宮町(現在の新宮市)生まれ。慶應義塾大学文学部予科中退。慶應義塾大学では当時教授だった永井荷風に学んだ。与謝野鉄幹、永井荷風に師事。「殉情詩集」など古典的な格調の抒情詩で知られたが、のち小説に転じ、幻想的・耽美的な作風を拓いた。
著作は多様で、詩歌(創作・翻訳)、小説、紀行文、戯曲、評伝、自伝研究、随筆、評論、童話、民話取材のもの、外国児童文学翻訳などあらゆるジャンルにわたっている。
大学中退後「三田文学」「スバル」などに詩歌を発表、「西班牙犬の家」によってもその才能が注目されつつあったが、1918年谷崎潤一郎の推挙で文壇に登場。以来、「田園の憂鬱」「お絹とその兄弟」「美しき町」などの作品を次々と発表してたちまち新進流行作家となり、芥川龍之介と並んで時代を担う二大作家と目されるようになった。谷崎潤一郎の妻、千代に恋慕し、のち譲り受けた。これは“細君譲渡事件”としてセンセーショナルな反響を呼び起こした。
俗に門弟3000人といわれるほど門人が多かったことでは有名で、太宰治、檀一雄、吉行淳之介、稲垣足穂、柴田錬三郎、中村真一郎、五味康祐、遠藤周作、安岡章太郎、古山高麗雄などがいる。とくに芥川賞の選考をめぐる太宰との確執はよく知られている。
主な作品に「南方紀行」「都会の憂鬱」、詩文集「我が一九二二」、「侘しすぎる」「李太白」、訳書「ピノチオ」、「女誠扇綺譚」「退屈読本」「一文夕話」「厭世家の誕生日」「支那童話集」「神々の戯れ」「更生記」「心驕れる女」、詩集「魔女」、「維納の殺人容疑者」「みよ子」「ぽるとがる文」「熊野路」、詩集「東天紅」、「山田長政」「奉公詩集」、詩集「佐久の草笛」、「自然の童話」「晶子曼荼羅」、随筆集「白雲去来」「小説高村光太郎像」「小説智恵子抄」「わんぱく時代」「みだれ髪を読む」「わが龍之介像」「小説永井荷風伝」「美の世界」「愛の世界」「詩の本」「極楽から来た」「詩文半世紀」など多数。
【記念館】佐藤春夫記念館(和歌山県新宮市新宮1番地熊野速玉大社境内)

兵庫県
・三木露風(1889~1964年)

 詩人。兵庫県揖西郡龍野町(後の龍野市、現在のたつの市)出身。本名は三木操(みき・みさお)。若くして頭角を現し、北原白秋と並び「白(=白秋)露(=露風)の時代」と呼称された。
 小・中学生時代から詩や俳句・短歌を新聞に寄稿、17歳で処女詩集を発表。20歳で代表作の「廃園」を出版するなど早熟の天才であり、北原白秋とともに注目された。早稲田大学および慶応義塾大学で学んだ。1918年ごろから鈴木三重吉の赤い鳥運動に参加し、童謡を手がける。1921年には童謡集「真珠島」を出版した。この中に収められた「赤とんぼ」は山田耕筰によって作曲され、世代を超えて広く知られている。1916年から1924年までトラピスト修道院で文学講師を務めた。1922年にはここで洗礼を受け、クリスチャンになった。信仰に基づく詩集のほかに、随筆「修道院生活」や「日本カトリック教史」などを著し、バチカンからキリスト教聖騎士の称号を授与された。主な作品に詩集・童謡集で「夏姫」「廃園」「寂しき曙」「白き手の猟人」「露風集」「良心」「幻の田園」「生と恋」「真珠島」「青き樹かげ」「信仰の曙」「小鳥の友」「神と人」、童謡で「赤とんぼ」「秋の夜」「かっこう」「十五夜」「春が来た」「野薔薇」、詩論で「露風詩話」「詩歌の道」、歌集で「トラピスト歌集」などがある。
 露風は数多くの学校校歌の作詞も手掛けている。兵庫県立飾磨工業高等学校、姫路市立姫路高等学校、たつの市立龍野小学校、赤穂市立赤穂小学校、三鷹市立高山小学校など。

島根県
・森鷗外(1862~1922年)

 小説家・評論家・翻訳家・医学者・軍医、官僚。石見国津和野(現在の島根県津和野町)生まれ。名は林太郎。森家は代々、津和野藩主・亀井公の御典医を務める家柄だった。廃藩置県などをきっかけに10歳のとき父と上京。東京帝国大医学部卒。大学卒業後、陸軍軍医になり官費留学生としてドイツで4年間過ごす。帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表。自ら文芸雑誌「しがらみ草紙」を創刊して文筆活動に。 その後、軍医総監となり、一時創作活動から遠ざかったが、「スバル」創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを執筆。主な作品に「阿部一族」「高瀬舟」「山椒大夫」「興津弥五右衛門の遺書」「うたかたの記」「ファウスト」「文づかひ」「渋江抽斎」「青年」など多数。帝室博物館長なども務めた。
【記念館】森鷗外記念館(島根県鹿足郡津和野町町田)
     森鷗外記念館ベルリン

香川県
・菊池寛(1888~1948年)

 小説家・劇作家・ジャーナリスト。香川県高松市生まれ。旧高松藩の儒学者の家で出生。文藝春秋社を創設した実業家でもある。京都帝国大学文学部卒。卒業後、時事新報社社会部記者を経て小説家となる。私費で雑誌「文藝春秋」を創刊したところ、大成功を収め、富豪となった。
 日本文藝家協会を設立。芥川賞、直木賞の設立者でもある。大映初代社長を務める。これらの成功で得た資産などで川端康成、横光利一、小林秀雄など新進の文学者に金銭的な援助を行った。麻雀や競馬にも熱中、日本麻雀聯盟初代総裁を務めたり、馬主として競走馬を所有した。
 主な作品に「父帰る」「無名作家の日記」「恩讐の彼方に」「忠直卿行状記」「屋上の狂人」「蘭学事始」「藤十郎の恋」「真珠夫人」「貞操問答」「三人兄弟」「日本競馬読本」「葬式に行かぬ訳」「下足番」「入れ札」など多数。
【記念館】高松市菊池寛記念館(香川県高松市昭和町一丁目2番20号サンクリスタル高松3階)

愛媛県
・河東碧梧桐(1873~1937年)

 俳人・随筆家。愛媛県温泉郡千船町(現在の松山市千舟町)で松山藩藩校・明教館の教授、河東坤(号・静渓)の五男として出生。本名は秉五郎(へいごろう)。少年の頃は正岡子規の友人で海軍参謀、秋山真之を「淳さん」と敬愛していた。
 1889年、帰郷した正岡子規に野球を教わったことがきっかけで、同級生の高浜虚子を誘い子規より俳句を学ぶ。1893年、京都の第三高等学校に入学。第二高等学校に編入の後、中退。1902年、子規が没すると、新聞「日本」俳句欄の選者を子規より受け継ぐ。1905年ごろより従来の五七五調の形にとらわれない新傾向俳句に走り始め、1906年より1911年にかけて新傾向俳句の宣伝のため二度の全国俳句行脚を行う。1933年還暦祝賀会の席上で俳壇からの引退を表明した。
 碧梧桐と高浜虚子は子規門下の双璧と謳われたが、守旧派として伝統的な五七五調を擁護する虚子と激しく対立していた。新傾向俳句からさらに進んだ定型や季題にとらわれず、生活感情を自由に歌い込む自由律俳句誌「層雲」を主宰する荻原井泉水と行動を共にした。しかし、1915年には井泉水と意見を異にし、層雲を去った。その後、碧梧桐は俳誌「海紅」を主宰。さらに、これも中塚一碧楼に譲る。碧梧桐は新傾向俳句の道にさながらのめり込んでいったようにみえる。子規は碧梧桐と虚子について、碧梧桐は冷やかなる事氷の如し、虚子は熱き事火の如し-と評している。
 代表句に「蕎麦白き道すがらなり観音寺」「赤い椿白い椿と落ちにけり」など。
主な作品集に「三千里」「新傾向句集」「八年間」などがある。

・高浜虚子(1874~1954年)
 俳人・小説家。愛媛県松山市長町新町(現在の松山市湊町)に旧松山藩士の家の4男として出生。9歳のとき祖母の実家、高濱家を継ぐ。本名は高濱清(たかはま・きよし)。「ホトトギス」の理念となる「花鳥風詠」「客観写生」を提唱した。
 1888年、伊予尋常中学(現在の愛媛県松山東高校)に入学。1歳上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して子規に兄事し、俳句を教わる。1891年、子規より虚子の号を受ける。1893年、碧梧桐と共に京都の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に進学。この当時の虚子と碧梧桐は非常に仲が良く、寝食をともにし、その下宿を「虚桐庵」と名付けるほどだった。1894年、三高の学科改変により、碧梧桐と共に第二高等学校(後の東北大学教養部)に転入。のち中退し、上京して東京都台東区根岸にあった子規庵に転がり込んだ。
 1897年、柳原極堂が松山で創刊した俳誌「ほととぎす」に参加。翌年、虚子がこれを引き継ぎ東京に移転。俳句だけでなく、和歌、散文などを加えて俳句文芸誌として再出発し、同誌には師の子規と東京帝国大学予備門で同級だった夏目漱石なども寄稿している。1902年、子規の没年、虚子は俳句の創作を辞め、その後は小説の創作に没頭している。
 1910年、一家で神奈川県鎌倉市に移住。以来、亡くなるまでの50年間ここで過ごした。1913年、碧梧桐に対抗するため俳壇に復帰。碧梧桐の新傾向俳句との対決の決意表明ともいえる句を詠んでいる。1927年、俳句は「花鳥風詠」「客観写生」の詩であるという理念を掲げた。1954年、文化勲章を受章、1959年勲一等瑞宝章を受章。その生涯に20万句を超える俳句を残した。
 2000年、兵庫県芦屋市に虚子記念文学館が開館。「ホトトギス」から飯田蛇笏、水原秋桜子、山口誓子、中村草田男、川端茅舎、松本たかしなどを輩出している。
 主な作品に句集で「虚子句集」「五百句」「五百五十句」「六百句」「虚子俳話」「句日記」、小説で「鶏頭」「柿二つ」「俳諧師「虹」などがある。
【記念館】虚子記念文学館(兵庫県芦屋市平田町8-22)
     高濱虚子記念館(長野県小諸市与良町2-3-24)

・正岡子規(1867~1902年)
 俳人・歌人。名は常規(つねのり)。伊予国温泉郡藤原新町(現在の愛媛県松山市花園町)に松山藩士の長男として出生。幼名は処之助(ところのすけ)で、後に升(のぼる)に改めた。東京大学文科大学国文科中退。俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など多方面にわたり創作活動し、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした。明治を代表する文学者の一人。東京帝国大学予備門の同級に夏目漱石、山田美妙、尾崎紅葉らがいる。  「歌よみに与ふる書」を新聞「日本」に連載。古今集を否定し、万葉集を高く評価して、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、短歌の革新に努めた。門人の伊藤左千夫、長塚節らが後に、短歌結社「アララギ」を結成した。死を迎えるまでの約7年間、結核を患った。
 ただ、結核を患ってからも句会を開き、評論、随筆を新聞、雑誌に連載、発表するなど創作・執筆活動の密度が濃くなっていく。柳原極堂ら「松風会」の俳人らとの句会には夏目漱石も加わっている。子規庵での句会・小説会・輪講会には高浜虚子、河東碧梧桐らが参加している。死の1年半余前から半年余にわたって「墨汁一滴」を新聞「日本」に連載している。さらに、病床にあって随筆「病床六尺」を著し、日記「仰臥漫録」を書いた。享年34歳。
 代表句に「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」など多数。
 辞世の句「糸瓜咲きて痰のつまりし仏かな」より、子規の忌日9月19日を「糸瓜忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。
 子規には忘れてはならないもう一つの顔がある。日本に野球が導入された草創のころの熱心な選手でもあった。日本において「野球」という表記を最初に行い「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「遊撃手」と日本語に訳したのは子規だ。
【記念館】松山市立子規記念博物館(愛媛県松山市道後公園1-30)