『20世紀経済人・企業人の生き方』
「オムロン」創業者 立石一真(1900〜1991年)
◯社業飛躍の転機は50歳時、米国のオートメーションとの出会い 【略歴】・7歳で父を亡くし、前半生は極貧、苦難の連続 ・33歳で大阪市都島区で「立石電機製作所」創業。→戦災で工場全壊→京都に本拠移し再出発 ・55歳時エレクトロニクス産業関連周辺機器に参入開始 ・59歳時、本社所在地の京都・御室にちなみ「オムロン」の商標を定めた。
◯社業飛躍の転機は50歳時、米国のオートメーションとの出会い 【略歴】・7歳で父を亡くし、前半生は極貧、苦難の連続 ・33歳で大阪市都島区で「立石電機製作所」創業。→戦災で工場全壊→京都に本拠移し再出発 ・55歳時エレクトロニクス産業関連周辺機器に参入開始 ・59歳時、本社所在地の京都・御室にちなみ「オムロン」の商標を定めた。
「YKKファスナー」創業者 吉田忠雄(1908〜1993年)
◯貫いたのは自前調達、徹底した一貫生産主義
吉田忠雄は富山県下新川郡下中島村住吉(現在の魚津市住吉)で生まれた。1923年、魚津尋常小学校卒業。経済的事情で進学を諦め、地元で働きながら通信教育で学んだ。1928年(昭和3年)、20歳のとき上京。古谷商店の社員を経て、1934年(昭和9年)にYKKの前身、サンエス商会を設立し、ファスナーの生産・販売を始めた。これは上京以来、勤めていた、同郷人が経営していた古谷商店が倒産し、店が扱っていたファスナー事業を引き受けたものだった。以後、YKKを世界的な企業に育て上げていった。
◯貫いたのは自前調達、徹底した一貫生産主義
吉田忠雄は富山県下新川郡下中島村住吉(現在の魚津市住吉)で生まれた。1923年、魚津尋常小学校卒業。経済的事情で進学を諦め、地元で働きながら通信教育で学んだ。1928年(昭和3年)、20歳のとき上京。古谷商店の社員を経て、1934年(昭和9年)にYKKの前身、サンエス商会を設立し、ファスナーの生産・販売を始めた。これは上京以来、勤めていた、同郷人が経営していた古谷商店が倒産し、店が扱っていたファスナー事業を引き受けたものだった。以後、YKKを世界的な企業に育て上げていった。
本田技研(ホンダ)の創業者・本田宗一郎(1906〜1991年)
◯本田宗一郎 エンジン一代、強烈な個性と独創性で世界を疾駆した人物
本田技研(ホンダ)の創業者・本田宗一郎は、エンジンの猛烈な改良・開発熱にとりつかれながら、権威や常識を覆した自由競争の時代に、強烈な個性と独創性で世界を疾駆した人物だ。生没年は1906(明治39)~1991年(平成3年)。
◯本田宗一郎 エンジン一代、強烈な個性と独創性で世界を疾駆した人物
本田技研(ホンダ)の創業者・本田宗一郎は、エンジンの猛烈な改良・開発熱にとりつかれながら、権威や常識を覆した自由競争の時代に、強烈な個性と独創性で世界を疾駆した人物だ。生没年は1906(明治39)~1991年(平成3年)。
トヨタ自動車の創業者・豊田喜一郎(1894〜1952年)
◯2010年、トヨタ自動車は販売台数で、長期にわたり繁栄を謳歌してきた巨大なアメリカの象徴、ゼネラル・モーターズ(GM)を抜き世界一となった。豊田喜一郎は20世紀の、いや21世紀に入ってもさらに飛躍を続ける、日本を代表する企業、トヨタ自動車の創業者だ。欧米に50年遅れて出発した日本の「純国産」自動車産業。技術も産業基盤もおぼつかない当時の状況を認識しながら、豊田喜一郎は戦前戦後の激動期、日本の自動車産業の礎を築いていった。米国フォード、GMの日本進出を横目で見ながら、喜一郎に迷いはなかったのか。今日の世界企業「TOYOTA」の姿が果たして想像できたのか。
◯2010年、トヨタ自動車は販売台数で、長期にわたり繁栄を謳歌してきた巨大なアメリカの象徴、ゼネラル・モーターズ(GM)を抜き世界一となった。豊田喜一郎は20世紀の、いや21世紀に入ってもさらに飛躍を続ける、日本を代表する企業、トヨタ自動車の創業者だ。欧米に50年遅れて出発した日本の「純国産」自動車産業。技術も産業基盤もおぼつかない当時の状況を認識しながら、豊田喜一郎は戦前戦後の激動期、日本の自動車産業の礎を築いていった。米国フォード、GMの日本進出を横目で見ながら、喜一郎に迷いはなかったのか。今日の世界企業「TOYOTA」の姿が果たして想像できたのか。
サントリーの創業者・鳥井信治郎(1879〜1962年)
◯鳥井信治郎 「やってみなはれ」精神で、国産ウイスキー事業化に挑む。ブドウ酒の輸入販売から始め、日本人の口に合う甘味ワインの製造・販売に成功、国産ウイスキーづくりに挑んだ。そして苦難を乗り越えて、国産の洋酒を日本に広く根付かせた人物だ。社風をうまく表現した、部下への指示は「やってみなはれ」。自らもチャレンジ精神こそ企業活力の源泉であることを体現してみせた。
◯鳥井信治郎 「やってみなはれ」精神で、国産ウイスキー事業化に挑む。ブドウ酒の輸入販売から始め、日本人の口に合う甘味ワインの製造・販売に成功、国産ウイスキーづくりに挑んだ。そして苦難を乗り越えて、国産の洋酒を日本に広く根付かせた人物だ。社風をうまく表現した、部下への指示は「やってみなはれ」。自らもチャレンジ精神こそ企業活力の源泉であることを体現してみせた。
「世界のソニー」を創業者 井深 大(1908〜1997年)
◯トランジスタからウォークマンまで、ソニーが世界に送り出した新製品の多くは、技術だけでは説明しきれない、人を惹き付ける“何か”を持つ。井深大(いぶかまさる)は、時代の予兆を製品化して見せた天衣無縫の技術者であり、盛田昭夫と手を携えてソニーを創業、戦後日本を代表する世界企業に育て上げた、モノづくりの天才だった。
◯トランジスタからウォークマンまで、ソニーが世界に送り出した新製品の多くは、技術だけでは説明しきれない、人を惹き付ける“何か”を持つ。井深大(いぶかまさる)は、時代の予兆を製品化して見せた天衣無縫の技術者であり、盛田昭夫と手を携えてソニーを創業、戦後日本を代表する世界企業に育て上げた、モノづくりの天才だった。




