北海道
・伊藤整(1905~1969年)
詩人・翻訳・評論・小説家。渡島国松前郡炭焼沢村(現在の小樽市)生まれ。東京商科大中退。1926年、最初の詩集「雪明りの路」を自費出版。28年、同人詩誌「信夫翁」を創刊。29年、「文藝レビュー」を創刊。31年、永松定・辻野久憲との共訳「ユリシーズ」前編を刊行。32年、最初の評論集「新心理主義文学」を刊行。35年、後にその表現をめぐって裁判になるD・H・ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」を翻訳、刊行。詩・戯作・翻訳・評論そして小説まで幅広い創作活動を展開した。
50年、翻訳した「チヤタレイ夫人の恋人」の裁判では、芸術性の高い文学作品をわいせつ文書とすることの是非、翻訳者を罪に問うことの是非などが争われた。57年、最高裁は伊藤、発行人(小山書店代表)ともに有罪とした。54年に出版された「女性に関する十二章」はベストセラーとなり、「○○に関する十二章」という出版物が相次ぐなど、「十二章ブーム」を巻き起こした。
代表作に自伝的長編「若き詩人の肖像」はじめ、「鳴海仙吉」「花ひらく」「火の鳥」「小説の方法」「小説の認識」「変容」などがある。
【記念館】小樽文学館(北海道小樽市色内1-9-5)
北海道立文学館(北海道札幌市中央区中島公園1-4)
・子母沢寛(1892~1968年)
作家。北海道厚田郡厚田村(現在の石狩市)生まれ。本名は梅谷松太郎。旧制北海中学校(現在の北海高等学校)、明治大学法学部卒。当初の弁護士志望から、読売新聞、東京日日新聞の新聞社勤務を経て、1928年「新選組始末記」を処女出版。その後「新選組遺聞」「新選組物語」の新選組三部作を出版。これらの作品は司馬遼太郎、池波正太郎らその後の作家に引用されている。
30年「笹川の繁蔵」で文壇デビュー。以後、「国定忠次」「駿河遊侠伝」などで股旅小説の草分けとなる。戦後は「勝海舟」「父子鷹」などの幕末小説を多く発表し、62年、第10回菊池寛賞を受賞。
実母と早くに別れ、幕府御家人くずれの祖父に溺愛されて育った。この祖父が、創価学会第2代会長・戸田城聖と同郷で、少年期からの知己だった。その関係で、後に子母沢の出版を戸田が受け持っている。
筆名の「子母沢」は住んでいた地、東京都大森区新井宿(現在の東京都大田区中央四丁目)子母沢より。
【記念館】北海道立文学館(北海道札幌市中央区中島公園1-4)
・渡辺淳一(1933~)
作家。北海道空知郡砂川町字上砂川三番地で生まれた。教職の父の転勤に伴い、11歳のとき札幌市中央区南七条二十二丁目五番地に移り、以後、一家がこの地で定住。1958年、札幌医科大医学部卒。59年、医師国家試験に合格、医師となった。医学博士。元札幌医大講師。
1970年、「光と影」で直木賞を受賞。作品は①「花埋み」(1970年)、「遠き落日」(1979年)、「女優」(1983年)、「君もコクリコ我もコクリコ」(1996年)などの伝記②「麻酔」(1993年)、「脳は語らず」(1974年)、「ダブル・ハート」(1969年)、「小説・心臓移植」(1969年)、「麗しき白骨」(1976年)、「ヴェジタブル・マン」(1964年)、「死化粧」(1965年)、「白夜シリーズ」(1976年~)、「無影燈」(1972年)などの医学・医療③「うたかた」(1989年)、「化身」(1984年)、「ひとひらの雪」(1983年)、「愛のごとく」(1984年)、「桜の樹の下で」(1989年)、「別れぬ理由」(1987年)、「かりそめ」(1975年)、「まひる野」(1977年)、「メトレス 愛人」(1988年)、「失楽園」(1997年)、「愛の流刑地」(2006年)など性的描写の濃い、不倫・男女関係を描いた作品などに大別される。
また、「くれない」(1979年)、「何処へ」(1992年)、「リラ冷えの街」(1970年)、「白き旅立ち」(1975年)など②③を融合した作品も少なくない。「失楽園」や「愛の流刑地」などは映画化され、“究極の愛のかたち”とも“不倫の極地”とも評され話題を呼んだ。小説のほかに、近年、流行語にもなり、様々な場所で引用された「鈍感力」も著している。
【記念館】渡辺淳一文学館(北海道札幌市中央区南12条西6丁目414)
北海道立文学館(北海道札幌市中央区中島公園1-4)
秋田県
・小林多喜二(1903~1933年)
小説家。秋田県北秋田郡下川沿村(現在の秋田県大館市)生まれ。4歳のとき北海道・小樽に移住。伯父から学資を受け勉学。小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)卒。卒業後、北海道拓殖銀行(拓銀)小樽支店に入行した。
1928年に起きた三・一五事件を題材に「一九二八年三月十五日」を「戦旗」に発表。この作品の中に特別高等警察(特高)による拷問の描写が特高の憤激を買い、後に彼自身の拷問死の引き金になったといわれる。
29年に「蟹工船」を「戦旗」に発表し、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を浴びる存在となった。だが、同時に特高から要注意人物としてマークされ始めた。既述の2作品と29年に「中央公論」発表した「不在地主」などにより拓銀を解雇(諭旨免職)された。31年、非合法の日本共産党に入党、32年に自らの地下生活の体験をもとに「党生活者」を執筆。33年に特高に逮捕され、拷問により虐殺された。主な作品に「蟹工船」「不在地主」「工場細胞」「党生活者など」。
近年の若い世代の非正規雇用者の増大と働く貧困層の拡大など社会的背景のもとに、2008年には「蟹工船」が再評価され、09年には映画化された。
【記念館】小樽文学館(小樽市色内1-9-5)
宮城県
・土井晩翠(1871~1952年)
詩人。仙台県仙台(現在の宮城県仙台市青葉区)で生まれた。本名は林吉。通称「どいばんすい」。本来、姓は「つちい」だったが、1932年に改姓した。東京帝国大学在学中は「帝国文学」を編集し、詩を発表。東大卒後、二高教授を務めた。
第一詩集「天地有情(うじょう)」に対する評価は、島崎藤村と併称された。作品には滝廉太郎の作曲で知られる「荒城の月」をはじめ、校歌、寮歌なども数多い。校歌は旧制第二高等学校、旧制函館高等水産学校、旧制青森師範学校、盛岡工業専門学校、大阪理工科大学など小・中・高校を含め50を超える学校の校歌を手掛けている。詩集には「晩鐘」「曙光」のほかホメロスの「イリアス」「オデュッセイア」、カーライルの「英雄論」の邦訳などがある。
山形県
・井上ひさし(1934~2010年)
小説家・劇作家・放送作家。ペンネーム・遅筆堂(ちひつどう)。山形県東置賜郡小松町(現在の川西町)で生まれた。井上靖と競った、文学青年だった父と5歳のとき死別。生活苦からカトリック系の孤児院(現在の児童養護施設)に預けられ、仙台第一高等学校まで過ごした。学費・生活費の金銭的な問題から2年間の休学をはさみ、上智大学フランス語科卒。
大学を卒業する前から浅草のストリップ劇場フランス座を中心に台本を書き始めた。卒業後、放送作家として活動し、山元護久とともに「ひょっこりひょうたん島」を手掛け、5年間放送される国民的人気番組となった。放送作家を経て本格的な劇作活動に入り、1972年「道元の冒険」で岸田戯曲賞および芸術選奨新人賞を受賞。小説にも手を染め、「手鎖心中」で直木賞を受賞した。91年「シャンハイムーン」により谷崎潤一郎賞、99年に菊池寛賞を受賞。
戯曲の代表作に「しみじみ日本・乃木大将」「頭痛肩こり樋口一葉」、小説の代表作に「吉里吉里人」などがある。
・藤沢周平(1927~1997年)
小説家。鶴岡市生まれ。山形師範学校卒。73年「暗殺の年輪」で第69回直木賞受賞。作家として世に出たのは40歳を過ぎてからで、一般的に考えればかなり遅いが、どれもがしっかりと練られた、膨大な数の作品を書き遺した。
作品は剣客や藩士の登場する武家ものと、町人や渡世人を主人公とする市井ものとに書き分けられている。武家ものにおいては、架空の「海坂(うなさか)藩」をつくりだし、その環境・街並み・広さ(サイズ)まで細部にわたって決め、作り込んで表現している点が秀逸。
主な作品は「用心棒日月抄」シリーズ、「蝉しぐれ」「風の果て」「たそがれ清兵衛」「闇の傀儡師」「三屋清左衛門残日録」「隠し剣孤影抄」「隠し剣秋風抄」「密謀」「市塵」「漆の実のみのる国」「よろずや平四郎活人剣」「獄医 立花登手控え」シリーズ、「回天の門」「逆軍の旗」「海鳴り」「本所しぐれ町物語」「橋ものがたり」「彫師 伊之助捕物覚え」シリーズ、「暁のひかり」「花のあと」「時雨みち」「玄鳥」「霧の朝」「一茶」「白き瓶 小説 長塚節」など多数
【記念館】鶴岡市立藤沢周平記念館(山形県鶴岡市馬場町4番6号鶴岡公園内)
・丸谷才一(1925~)
小説家・文芸評論家・翻訳家。鶴岡市生まれ。1943年に旧制鶴岡中学校(現在の山形県鶴岡南高等学校)を卒業。47年に東京大学文学部英文科に入学し、現代イギリス文学を研究、ジェイムズ・ジョイスを知って、圧倒的な影響を受けた。52年、篠田一士、菅野昭正らと季刊同人誌「秩序」を創刊、作品を発表し始めた。53年國學院大学講師に就任、54年に同大学助教授に昇進。演劇批評家、根村絢子と結婚。64年國學院大学を退職。その後、ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」(上下2巻)の共訳を行い、その技量によって注目された。66年、小説「笹まくら」「梨のつぶて」を刊行。68年「年の残り」刊行、芥川賞を受賞。75年には「四畳半襖の下張事件」では被告人・野坂昭如の特別弁護人として活躍した
小説、評論、随筆に翻訳と活躍は幅が広く、著書に「たった一人の反乱」「女ざかり」、短編「横しぐれ」、評論「文章読本」「後鳥羽院」「忠臣蔵とは何か」「新々百人一首」、随筆「男のポケット」など多数。93年にベストセラーとなった「女ざかり」は翌年、吉永小百合主演で映画化された。
福島県
・中山義秀(1900~1969)
作家。福島県西白河郡大屋村(現在の白河市)生まれ。旧制安積中学(現在の福島県立安積高等学校)、早稲田大学文学部英文科卒。大学在学中に横光利一らと同人誌「塔」を創刊し、同誌に「穴」を発表。卒業後、中学の教員生活を続けるかたわら、創作活動に励む。妻の死など苦難の後、著作集「電光」を刊行。1938年に「厚物咲(あつものざき)」で芥川賞を受賞。以後、「碑」「テニヤンの末日」などを発表、文壇での評価を高めた。
戦後は歴史小説に目を向け、「信夫の鷹」「咲庵(しょうあん)」「新剣豪伝」などを著した。その後、がんに倒れ「芭蕉庵桃青」が絶筆となった。93年に義秀の生地の自治体がふるさと事業の一環として「中山義秀記念文学館」を開館。これを記念して、優れた歴史小説を対象とした「中山義秀文学賞」が創設された。
【記念館】中山義秀記念文学館(福島県白河市大信町屋字沢田25番地)
・横光利一(1898~1947年)
小説家。福島県北会津郡東山村大字湯本川向に生まれた(本籍地は大分県宇佐郡長峰村)。父の鉄道敷設工事の仕事の関係で、千葉県佐倉など各地を転々とする。1910年、13歳で三重県第三中学校(現在の三重県立上野高等学校)入学、スポーツ万能の少年だった。14年、早稲田大学英文科に入学したが、文学に傾倒し、除籍。再び政治経済学科に入学したが、意に沿わず早稲田大学を中退。
21年ごろから菊池寛に師事し、川端康成と出会い、以後、生涯の友となった。
23年、菊池の推挙により同人誌「文藝春秋」の同人となり、同誌に「蝿」を「新小説」に「日輪」を発表した。24年、「御身」「日輪」を刊行。今東光、中河与一、稲垣足穂ら新進作家を糾合して「文藝時代」を創刊した。プロレタリア文学全盛の中、この雑誌は新感覚派の拠点となった。横光は新感覚派の天才と呼ばれるようになり、川端康成とともに、新感覚派運動を展開し、次いで新心理主義文学に移った。主な作品に「日輪」「機械」「紋章」「旅愁」などがある。
新潟県
・会津八一(1881~1956年)
歌人・美術史家・書家。新潟市で生まれた。雅号は秋艸道人(しゅうぞうどうじん)、渾斎(こんさい)。中学生のころから「万葉集」や良寛の歌に親しみ、俳句・短歌を始めた。新潟尋常中学校(現在の新潟県立新潟高等学校)を経て東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学し、坪内逍遥や小泉八雲らの講義を聴講し、早大英文科卒。母校で英文学・東洋美術史を講義した。
この講師時代には美術史研究のために、しばしば奈良へ旅行し、まとめた仏教美術史研究「法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究」(1933年)で学位を受けている。妥協を許さぬ人柄から孤高の学者として知られ、奈良の古美術研究をライフワークとした。生涯、妻帯しなかった。
歌集に「鹿鳴集」などがあり、万葉風を近代化した独自な歌風を確立した。
【記念館】会津八一記念館(新潟市中央区西船見町5932番地561)
栃木県
・山手樹一郎(1899~1978年)
作家。本名は井口長次。鉄道員の父が栃木県・黒磯駅に勤務していた当時に生まれた。1916年、旧制明治中学校卒業。27年、博文館に入社し、のち「譚海」編集長。1932年ごろから兼業作家となり、40歳を過ぎ、1939年から専業作家になった。33年「一年余日」でサンデー毎日大衆文芸賞の佳作に入選。
編集者として山本周五郎などの担当するかたわら、自身が編集に携わる雑誌を中心に作品を発表。その際、原稿料をもらうために、筆名「山手樹一郎」を名乗った。このため、当初は謎の覆面作家だった。
作品は一貫して大衆文芸に求められる、読み手側の爽快感を重要視したつくりで、ほぼすべての物語が明朗爽快・勧善懲悪・人情話・ハッピーエンドという要素でまとめられている。このため、時に偉大なるワンパターン作家などといわれることもあった。
40年、出世作「桃太郎侍」を地方紙に連載。戦後は「夢介(ゆめのすけ)千両みやげ」「又四郎行状記」「江戸名物からす堂」「遠山の金さん」「ぼんくら天狗」「浪人市場」「八幡鳩九郎」など“山手調”の明るい感覚によって一時代を画した。唯一の歴史小説「崋山と長英」で第4回野間文芸賞を受賞。肺がんで死去。
群馬県
・田山花袋(1871~1930年)
小説家。名は録弥(ろくや)。栃木県邑楽郡館林町(現在の群馬県館林市)の生まれ。田山家は代々、秋元藩士の家柄。12歳から漢学塾で漢詩文を学び、14歳のとき漢詩集を編んだ。兄に従い上京。尾崎紅葉のもとで修行したが、国木田独歩、柳田国男らと交わり、1897年、彼らと「抒情詩」を刊行。モーパッサンの影響を強く受け、1902年「アカツキ叢書」に書き下ろした「重右衛門の最後」を発表し、これで作家としての力量を認められた。1904年、日露戦争が勃発すると、第二軍の写真班で従軍記者を経験した。
1907年、中年作家の女弟子への複雑な感情を描いた「蒲団」を発表。女弟子に去られた男が、彼女の使用していた蒲団に顔をうずめて匂いを嗅ぎ、涙するという描写は、読者および文壇に衝撃を与えた。この作品によって、自然主義文学に一時期を画し、赤裸々な現実描写を主張した。主な著作に「生」「妻」「田舎教師」「時は過ぎ行く」「一兵卒の銃殺」などがある。
【記念館】田山花袋記念文学館(群馬県館林市城町)
千葉県
・国木田独歩(1871~1908年)
詩人・小説家・ジャーナリスト・編集者。本名は哲夫(幼名の亀吉を後に改名)。東京専門学校(早稲田大学の前身)英語政治家中退。千葉県銚子で生まれたが、司法省の役人だった父が、中国地方各地を転任したため、5~16歳まで山口、萩、広島、岩国などに住んだ。筆名は独歩のほか、孤島生、鏡面生、鉄斧生、独歩吟客、独歩生などがある。
田山花袋、柳田国男らと交遊、詩、小説を書いたが、次第に小説に専心。二葉亭四迷の訳「あひびき」に影響され、1901年「武蔵野」「初恋」などを発表、浪漫派として作家活動を始めた。続いて1903年「運命論者」「正直者」など自然主義文学の先駆となる作品を発表した。ただ、これらの作品は1905年「独歩集」、1906年「運命」とまとめられて刊行され高く評価されたが、作品発表当時の文壇は、まだ尾崎紅葉・幸田露伴の「紅露時代」であり、時代的に早すぎた独歩の作品は、あまり理解されず、文学だけでは生計を立てられなかったという。そのため、彼は新聞記者、編集者として生計を立てたが、現在も続いている雑誌「婦人画報」の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。
夏目漱石は短編「巡査」を絶賛したほか、芥川龍之介も独歩の作品を高く評価していたといわれる。
【記念館】北海道立文学館(北海道札幌市中央区中島公園1-4)
東京都
・池波正太郎(1923~1990年)
作家。東京市浅草区聖天町(現在の東京都台東区浅草7丁目)生まれ。生まれた年に関東大震災が起こり、両親とともに埼玉県浦和に引越し、6歳まで同地で過ごした。やがて東京に転居したが、両親は不和で離婚。正太郎は母に引き取られて浅草永住町の祖父の家に移った。祖父・今井敬三は職人気質・江戸っ子気質の人物で、忙しい母親に代わって彼をかわいがった。下谷・西町小学校卒業。
家庭の事情により、奉公に出、兜町の株式取引所などを渡り歩くうち、チップや小遣い銭を元手に内緒の相場に手を出し、月給を上回る収入を得たこともあった。1941年、太平洋戦争開戦。その翌年、兜町を退職。国民勤労訓練所入所。敗戦後の1946年、東京都職員となり下谷区役所に勤務。この年創設された読売新聞演劇文化賞に向けて戯曲「雪晴れ」を執筆。入選第四位となり、新協劇団で上演された。
1948年、長谷川伸を訪問、翌年から本格的に戯作を師事し、これがプロの作家のスタートとなった。その後、新国劇と親密になり「檻の中」(1952年)、「渡辺崋山」(1953年)などを提供する一方、長谷川の強い勧めで小説でも「大衆文藝」に「厨房にて」(1954年)などの作品を発表した。これを機に
劇作家から小説家となり、60年「錯乱」で直木賞を受賞。以後「鬼平犯科帳」(1968年~)、「剣客商売」(1972年)、「仕掛人 藤枝梅安」(1973年)の三大時代小説シリーズを中心に活躍。このほか、「真田太平記」「雲霧仁左衛門」など人気作品も多い。77年には吉川英治文学賞を受賞。
こうした戦国・江戸時代を舞台にした時代小説を次々に発表するかたわら、美食家、映画評論家としても著名だった。
【記念館】池波正太郎真田太平記館(長野県上田市中央3丁目7番3号)
・遠藤周作(1923~1996年)
小説家。東京府北豊島郡生まれ。父親の仕事の都合で幼少時代を満州で過ごした。帰国後の12歳のとき、伯母の影響でカトリックの洗礼を受けた。1941年、上智大学予科入学。42年中退。慶應義塾大学文学部仏文科を卒業後、50年フランスに留学。帰国後は批評家として活動するが、55年に発表した小説「白い人」が芥川賞を受賞し、小説家として脚光をあびることになった。
純文学からユーモア小説まで幅広い作品を発表。さらに随筆や対談などでも活躍した。95年文化勲章を受賞。キリスト教を主題にした作品を多く執筆している。主な著書に「海と毒薬」「沈黙」「侍」「イエスの生涯」「孤狸庵閑話」「おバカさん」「深い河」など多数。
【記念館】遠藤周作文学館(長崎市東出津町77番地)
・大岡昇平(1909~1988年)
小説家、評論家、フランス文学の翻訳家・研究者。東京市牛込区新小川町(現在の東京都新宿区)生まれ。1929年、京都帝国大学文学部入学。河上徹太郎や中原中也らと同人誌「白痴群」を創刊。32年、京都大学仏文科卒。
44年召集され、翌年、米軍の捕虜となり、レイテ島の俘虜病院に収容された。この戦争および俘虜病院での体験が、後の彼の人生や生き方を大きく変えるきっかけとなった。敗戦後、小林秀雄の勧めで「俘虜記」を執筆。49年、この「俘虜記」により第一回横光利一賞受賞、代表作の一つとなった。
この後、フランス心理小説の手法によるベストセラー小説「武蔵野夫人」や戦争文学「野火」(1952年)、さらには歴史小説「天誅組」や「レイテ戦記」(1971年)がある。評論に「中原中也」(1974年)、「常識的文学論」など。
「事件」(1978年)により日本推理作家協会賞、「小説家 夏目漱石」(1989年)により読売文学賞を受賞している。
“ケンカ大岡”と呼ばれるほどの文壇有数の論争家であり、言動が物議を醸すことも少なくなかった。井上靖「蒼き狼」、海音寺潮五郎「二本の銀杏」「悪人列伝」、松本清張「日本の黒い霧」などのそれぞれ内容を巡り、雑誌面で激しい論争を繰り広げた。
【記念館】神奈川近代文学館(横浜市中区山手町110)
神戸文学館(兵庫県神戸市灘区王子町3丁目1番2号)
・尾崎紅葉(1867~1903年)
小説家。江戸芝中門前町(現在の浜松町)生まれ。硯友社の代表作家。本名は徳太郎。「半可通人」「十千万堂」などの号を持っていた。東京帝国大学国文科中退。1885年、山田美妙斎とともに硯友社を起こし「我楽多文庫」を創刊した。
明治文壇の雄として偉業を遺し、泉鏡花、田山花袋、徳田秋声らの逸材を出した。「紅露時代」と呼ばれ、幸田露伴と並称され、明治文壇で重きを成した。1897年から「金色夜叉」を書いたが、未完のまま没した。代表作は「二人比丘尼色懺悔」「多情多恨」「金色夜叉」など。俳人としても角田竹冷らとともに秋声会を興し、正岡子規と並んで新派と称された。
・蒲原有明(1875~1952年)
詩人。本名は隼雄。東京麹町隼町(現在の千代田区)生まれ。東京府尋常中学校(現在の都立日比谷高校)を卒業し、第一高等中学校(後の一高)を受験したが失敗。国民英学会で学び卒業後、小林存や山岸荷葉らと同人誌「落穂双紙」を発刊し、ここに初めて詩を載せた。読売新聞の懸賞小説に応募し「大慈悲」が当選し、この時期、小説を書いたが、すぐに詩作に専念するようになった。
巌谷小波の木曜会に顔を出すようになり、D.G.ロセッティの訳詩や、新体詩集「草わかば」(1902年)を刊行した。さらに上田敏訳詩に強く影響を受け「独絃哀歌」(1903年)、「春鳥集」(1905年)を刊行し、象徴主義を謳歌。1908年に刊行した「有明集」で象徴詩手法を確立し、薄田泣菫(すすきだきゅうきん)と併称された。
北原白秋、三木露風らに影響を与えた。
・幸田露伴(1867~1947年)
小説家。江戸下谷三枚橋横町(現在の東京都台東区)で生まれた。本名は成行(しげゆき)。別号は蝸牛庵(かぎゅうあん)、雷音洞主、脱天子など。第一回文化勲章を受章。
1889年「風流仏」などを発表、評価され「五重塔」(1890年)、史伝「運命」(1919年)などの文語体作品で、文壇での地位を確立。尾崎紅葉とともに「紅露時代」と呼ばれる時代を築いた。理想主義的傾向を持つ擬古典派の代表的作家。主な作品に小説「五重塔」「運命」「連環記」、史伝「頼朝」、戯曲「名和長年」、長編詩集「出盧」などがある。また、漢文学、日本古典や諸宗教にも通じ、多くの随筆や史伝のほか、「芭蕉七部集評釈」などの古典研究などを残した。
【記念館】北海道立文学館(北海道札幌市中央区中島公園1-4)
・塩野七生(1937~)
作家。学習院大学文学部哲学科卒業後、1963~68年までイタリアに遊学。68年に帰国すると、執筆を開始。「中央公論」掲載の「ルネサンスの女たち」(69年)で作家デビューを果たす。70年、再度イタリアに渡り、現在に至る。フィレンツェ在住。1992年から2006年にかけて執筆した「ローマ人の物語」に代表される、イタリア中心に古代から近世に至る歴史小説を多数執筆している。
70年「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」で毎日出版文化賞、81年「海の都の物語」でサントリー学芸賞、82年これまでの著作活動に対し菊池寛賞をそれぞれ受賞。88年「わが友マキアヴェッリ」で女流文学賞受賞。「神の代理人」(72年)、「サロメの乳母の話」(83年)、「コンスタンティノープルの陥落」(83年)、「ロードス島攻防」(91年)、「レパントの海戦」(91年)、殺人事件シリーズ「緋色のヴェネツィア」(88年)、「銀色のフィレンツェ」(90年)、「黄金のローマ」(92年)、「わが友マキアヴェリ フィレンツェ存亡」(87年)、「海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年」(89年)、「三つの都の物語」(99年)など多数。
日比谷高校時代の同級生に庄司薫、古井由吉らがいる。
・杉本苑子(1925~)
作家。東京都新宿区出身。文化学院卒。1952年「燐の譜」で「サンデー毎日」の懸賞小説に入選。選考委員の吉川英治に師事。吉川英治死去の翌年、63年「孤愁の岸」で第48回直木賞受賞。以後、歴史小説家として活躍している。78年「滝沢馬琴」で吉川英治文学賞。86年「穢土荘厳(えどしょうごん)」で女流文学賞を受賞。
代表的著書に「華の碑文-世阿弥元清」(64年)、「春日局」(70年)、「玉川兄弟-江戸上水ものがたり」(74年)、「埋み火-近松門左衛門の生涯」(74年)、「マダム貞奴」(75年)、「江戸を生きる」(76年)、「虚空を風が吹く」(76年)、「影の系譜-豊臣家崩壊」(81年)、「散華-紫式部の生涯」(91年)、「天智帝をめぐる七人」(94年)、「私家版 かげろふ日記」(96年)、「私家本 かげろふ日記」(96年)、「檀林皇后私譜」(81年)、「二条院ノ讃岐」(82年)、「絵島疑獄」(83年)、「残照」(87年)、「決断のとき-歴史にみる男の岐路」(90年)、「利休 破調の悲劇」(90年)、「新とはずがたり」(90年)、「鶴屋南北の死」(90年)、「引越し大名の笑い」(91年)、「汚名 本多正純の悲劇」(92年)、「二条ノ后」(63年)、「悲劇の風雲児」(94年)、「埠頭の風」(89年)、「大江戸ゴミ戦争」(91年)、「冥府回廊」(84年)などがある。
・高杉良(1939~)
作家。早稲田大学文学部卒。化学関係の専門紙「石油化学新聞」記者時代の75年「虚構の城」でデビュー。リアリティーのあるストーリー展開に、モデルとなった出光興産の社員による内部告発ではないかと噂されるほど反響が大きかった。
その後もサラリーマンの立場に立って、数多くの企業小説・経済小説を次々に発表している。初期は、たくましく生きるミドルマネジメントに、その後はダイナミックな起業家や経営者、さらには組織の腐敗にスポットをあてたものが多い。
作品は「小説 日本興業銀行」「大合併」「鮮やかな退任」「会社蘇生」「懲戒解雇」「人事権!」「濁流」「挑戦つきることなし」「辞表撤回」「首魁の宴」「局長罷免 小説通産省」「小説 消費者金融」「生命燃ゆ」「対決」「炎の経営者」「管理者降格」「破滅への疾走」「青年社長」「明日はわが身」など。
バブル経済が弾けて金融機関の多額の不良債権が発生、その処理に公的資金が導入される過程で、同氏が描いた大手金融機関を舞台にした「金融腐蝕列島」「金融腐蝕列島呪縛」「金融腐蝕列島 再生」は大きな話題となり、映画化もされた。
・武田泰淳(1912~1976)
作家。東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)で生まれた。東京帝国大学支那文学科中退。在学中、竹内好と知り合った。左翼運動を繰り返したため退学。退学後、1934年、魯迅の弟、周作人来日歓迎会を機に、竹内好らと中国文学研究会を創設。
1937年、日華事変の戦線に送られたが、2年後に除隊。1943年に処女作「司馬遷」刊行、昭和文学屈指の評論との評価を得た。終戦時は上海に滞在していたが、日本に帰国。1947年「蝮のすゑ」を発表した。同年、北海道大学法文学部助教授として勤務したが、1948年に「近代文学」の同人となり、同年、作家に専念するため北大助教授を退職し、帰京。
1954年に「ひかりごけ」を発表、1958年には北海道大学在籍時、訪ねたアイヌを題材にした「森と湖のまつり」を発表。この作品は同年、内田吐夢監督、高倉健主演で映画化された。また、1959年には「二・二六事件」を舞台にした「貴族の階段」が吉村公三郎監督で映画化された。
1969年から長編小説「富士」を文芸雑誌「海」に連載開始し、71年に刊行した。1952年「風媒花」、1954年「ひかりごけ」を発表。1973年には「快楽(けらく)」で日本文学大賞を受賞するなど黙示録的なスケールで人間存在の根本を問う重厚な作品を残した。
【記念館】日本近代文学館(東京都目黒区駒場4-3-55)
神奈川近代文学間(神奈川県横浜市中区山手町110)
・立原道造(1914~1939年)
詩人。日本橋区橘町(現在の東日本橋)に生まれた。昭和初期に活動し、詩人および建築家として足跡を残している。結核のため、わずか24歳で急逝した。東京帝国大学工学部建築科卒。1927年(昭和2年)、13歳のとき北原白秋を訪問するなど、すでに詩作への造詣を持っていた。同年、口語自由律短歌を『學友會誌』に発表、自選の歌集「葛飾集」「両国閑吟集」、詩集「水晶簾」をまとめるなど、13歳で歌集をつくり才能を発揮していた。
高校時代は詩集「こかげ」(32年)を創刊する一方、四行詩集「さふらん」編纂も手掛けた。33年に詩集「日曜日」「散歩詩集」を制作。34年、東京帝国大学工学部建築学科に入学。丹下健三が1学年下に在籍していた。帝大在学中、建築の奨励賞、辰野賞を3年連続受賞した。36年、テオドール・シュトルム短篇集「林檎のみのる頃」を訳出した。37年、物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集「ゆふすげびとの歌」を編んだ。このほか、堀辰雄やリルケに傾倒し、繊細・純粋で音楽的な抒情詩を書いた詩集「萱草(わすれぐさ)に寄す」「暁と夕の詩」と立て続けに出版した。39年、第一回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞した。死後、「優しき歌」(47年)が出版された。
【記念館】立原道造記念館(東京都文京区弥生)1997年設立されたが、2010年9月27日から休館されている。
・富田常雄(1904~1967年)
小説家。父常次郎は講道館四天王の一人に数えられた著名な柔道家。明治大学商学部卒。在学中に詩誌『感情革命』を創刊するなど、学生時代から詩、小説、戯曲などを書き始めるが、一般に知られるようになるのは42年の「姿三四郎」の出版から。明治20年代の前後の世相を背景に柔道一筋に生きる青年を描いたこの長編は、戦中戦後を通して変わらない人気を得た。この「姿三四郎」は、黒澤明監督、藤田進主演で映画化された。戦後もたびたび映画化、テレビドラマ化された。
49年「刺青」「面」で直木賞を受賞。作品は柔道と歴史・時代小説に大別される。「弁慶」(1952~1955年)、「鳴門太平記」(1961~1962年)、「風雲真田軍記」(1955)、「巴御前」(1954年)、「西郷隆盛」(1940年)、「実説 坂本龍馬 土佐海援隊」(1968年)、「柔」(1964~1965年)、「女やわら抄」(1958年)、「柔道水滸伝」(1971年)などの話題作がある。
・谷川俊太郎(1931~)
詩人、翻訳・脚本家、絵本作家。信濃町で生まれる。現在の東京都立豊多摩高等学校卒。48年、北川幸比古ら友人の影響で詩作を始め、11月ガリ版刷りの詩誌「金平糖」に2篇の8行詩を掲載。50年「蛍雪時代」や「学窓」などに作品を投稿。「文学界」に「ネロ他5篇」が父・谷川徹三の友人の三好達治の紹介で掲載。52年、初めての詩集「二十億光年の孤独」を刊行し、代表作のひとつとなっている。
まもなく、詩作と並行して歌の作詞、脚本やエッセイの執筆、評論活動などを行うようになった。石原慎太郎、江藤淳、大江健三郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。
67年に初の訳書となる「あしながおじさん」(ジーン・ウェブスター)を出版。翻訳の分野では「マザーグース」「ピーナッツ」など2007年までに50種類の著作を手掛けた。主な作品に「六十二のソネット」「愛について」「愛のパンセ」「世界へ!」「あなたに」「21」「地球へのピクニック」「ことばあそびうた」「わらべうた」「みみをすます」「アダムとイブの対話」などがある
様々なジャンルの賞を受賞している。62年に「月火水木金土日のうた」で第4回日本レコード大賞作詞賞、75年に「マザーグース」で日本翻訳文化賞、83年に「日々の地図」で読売文学賞、85年に「よしなしうた」で現代詩歌椿賞、93年に「世間知ラズ」で萩原朔太郎賞、2008年に「私」で詩歌文学館賞、2010年に「トロムソコラージュ」で鮎川信夫賞をそれぞれ受賞している。
・辻邦生(1925~1999年)
作家、フランス文学者。東京市本郷区駒込西片町生まれ。旧制松本高等学校時代、寮生活で斎藤宗吉(北杜夫)と知り合った。1949年、東京大学文学部仏蘭西文学科に入学、52年卒業し大学院へ進学。卒業論文は「スタンダール論」。立教大学助教授、学習院大学文学部フランス文学科教授などを歴任し、教鞭をとった。
57年から61年までフランスに留学。63年、長編「廻廊にて」を上梓し、近代文学賞を受賞。この後、芸術選奨新人賞を得た。68年の「安土往還記」や72年に毎日芸術賞を受けた「背教者ユリアヌス」など、独自の歴史小説を次々と発表。95年には「西行花伝」により谷崎潤一郎賞受賞。
他に「夏の砦」(66年)、「異国から」(短編集、68年)、「北の岬」(短編集、69年)、「嵯峨野明月記」(71年)、「天草の雅歌」(71年)、「ポセイドン仮面祭」(戯曲、73年)、「霧の聖マリ ある生涯の七つの場所」(75年)、「時の扉」(77年)、「春の戴冠」(77年)、「時の終りへの旅」(77年)、「天使たちが街をゆく 即興喜劇」(戯曲、85年)、「雲の宴」(87年)、「銀杏散りやまず」(89年)、「睡蓮の午後」(90年)、「黄昏の古都物語」(92年)、「花のレクイエム」(96年)などがある。
・中里介山(1885~1944年)
小説家。本名は弥之助。仏教思想を根幹として、独自の風格を持つ大衆文学の先駆。神奈川県西多摩郡羽村(現在の東京都羽村市)生まれ。少年時代、家は農家だったが、父の代で離農したため、土地を失い不遇の時代を過ごした。1898年(明治31年)、西多摩尋常高等小学校卒業後、上京し電話交換手や母校の代用教員の職に就き一家の家計を支えた。
「平家物語」などの古典に親しむ一方で、ユーゴーらの外国文学も好んだ。キリスト教や社会主義に接近し、幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三らの社会主義者と親交を結び、「平民新聞」へ寄稿した。
1906年(明治39年)、「都新聞」に入社、「高野の義人」など次々と時代小説を発表し、1909年(明治42年)、「都新聞」に初めての連載小説(処女作)「氷の花」を発表した。「大逆事件」は、介山の交友関係者の中からも多数の逮捕者、刑死者を出し、彼の精神にも深い影を落とした。
代表作となった小説「大菩薩峠」は1913年(大正2年)から「都新聞」で掲載開始され、1941年(昭和16年)まで書き継がれたが、未完に終わった。ほかに、法然上人を描いた「黒谷夜話」、聖徳太子を扱った「夢殿」(未完)などの作品がある。
生涯、妻帯しなかった。
・中島敦(1909~1942年)
小説家。東京帝国大学国文科大卒。中島家は代々、日本橋新乗物町(現在の日本橋堀留町)で、駕籠を製造販売する商家だった。深田久弥と深い交友関係を持っていた。デビュー作の「山月記」(1942年)、「文字禍」(1942年)、続けて発表された「光と風と夢」(1942年)などの作品がある、代表作の「李陵」(1943年)、「弟子」(1943年)ほか、いくつかの作品は、彼が気管支喘息で早逝した後、発表された。漢文調の格調高い端正な文体とユーモラスに語る独特の文体を巧みに使い分けている。「李陵」は無題だったものを、深田が命名したもの。没後の1948年、中村光夫、氷上英広らの編集で「中島敦全集」全3巻が筑摩書房から刊行され、毎日出版文化賞を受賞。以後、国語教科書に「山月記」が多く掲載されたため、広く知られた作家となった。中国を背景とする作品が多い。
・童門冬二(1927~)
小説家・評論家。本名は大田久行。東海大学附属旧制中学校卒。44年に海軍土浦航空隊に入隊するが翌年終戦。戦後は東京都庁に勤務。広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任し、1979年退職。作家活動に専念。都庁在職中は美濃部都政を支えた。60年に「暗い川が手を叩く」で第43回芥川賞候補となった。
退庁後は、都在籍中に蓄積した人間管理と組織の実学を歴史の中に再認識し、歴史小説やノンフィクションの分野に新境地を拓いた。数多くのエッセイも執筆している。
主な著書に「小説 上杉鷹山」「北の王国」「近江商人魂」「小説 河井継之助」「海の街道」「伊能忠敬」「渋沢栄一」「小説 伊藤博文」「中江藤樹」「山田方谷」「平将門」「小説 二宮金次郎」「小説 横井小楠」「小説 海舟独言」「小説 蒲生氏郷」「国僧 日蓮」など多数。
・永井路子(1935~)
小説家。本名は黒板擴子(ひろこ)。東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)に生まれ、茨城県古河町(現在の茨城県古河市)で育った。東京女子大学国語専攻部卒。戦後は東京大学で経済史を学んだ。小学館勤務を経て文筆業に入る。1964年「炎環」で第52回直木賞受賞。82年「氷輪」で女流文学賞受賞。84年、中世を題材にした作品で歴史小説に新風をもたらしたとして第32回菊池寛賞受賞。88年「雲と風と 伝教大師最澄の生涯」で吉川英治文学賞を受賞。
作品は古代、中世(平安時代、鎌倉時代、戦国時代、安土桃山時代)と幅広く、NHKの大河ドラマの「草燃える」「毛利元就」「姫の戦国 江(ごう)」に原作として使用されている。歴史の事象・事件を検証する場合も、従来はあまり表舞台に登場することの少なかった女性(妻・恋人)の側から、例えば平清盛、源頼朝、豊臣秀吉、毛利元就ら武将の妻の立場から捉えた作品が多いのが特徴。
主な著書に「絵巻」(66年)、「北条政子」(69年)、「朱なる十字架」(71年)、「王者の妻-秀吉の妻おねね」(71年)、「歴史をさわがせた女たち」(72年)、「平家物語の女たち」(72年)、「一豊の妻」(72年)、「乱紋」(74年)、「にっぽん亭主五十人史」(77年)、「悪霊列伝」(77~78年)、「つわものの賦」(78年)、「相模のもののふたち 中世史を歩く」(78年)、「時宗の決断」(78年)、「源頼朝の世界」(79年)、「流星 お市の方」、「この世をば」(84年)、「波のかたみ 清盛の妻」(85年)、「はじめは駄馬のごとく-ナンバー2の人間学」(85年)、「美貌の大帝」(85年)、「茜さす」(88年)、「噂の皇子」(88年)、「裸足の皇女」(89年)、「わかぎみ」(89年)、「異議あり日本史」(89年)、「歴史の主役たち 変革期の人間像」(90年)、「歴史のヒロインたち」(90年)、「よみがえる万葉人」(90年)、「山霧 毛利元就の妻」(92年)、「王朝序曲」(93年)、「姫の戦国」(94年)、「葛の葉抄 あや子、江戸を生きる」(95年)、「望みしは何ぞ 王朝 優雅なる野望」(96年)など多数。
【記念館】古河文学館別館(永井路子旧宅、茨城県古河市)
・中村真一郎(1918~1997年)
小説家・文芸評論家・詩人・劇作家。東京の開成中学校に入学し、終生の文学的盟友、福永武彦と知り合った。第一高等学校に加藤周一と知り合った。東京帝国大学仏文科に進学、堀辰雄の知己を得たほか、プルーストと『源氏物語』という、中村の二大文学的源泉への関心はこの時代に育まれた。このころ作家の芹沢光治良にも、作家としての矜持のあり方についての示唆を受けている。
小説、詩、評論の分野から演劇、翻訳の分野まで多彩に活躍。「この百年の小説」(1974年)で毎日出版文化賞、「夏」(1978年)で谷崎潤一郎賞、「冬」(1985年)で日本文学大賞、「蠣崎波響の生涯」(1989年)で読売文学賞(評論・伝記部門賞)と藤村記念歴程賞を受賞。
主な著書に「死の影の下に」(1947年)、「恋路 王朝小説集」(1956年)、「空中庭園」(1965年)、「遠隔感応」(1969年)、「四季」(1975年)、「死顔」(1978年)、「仮面と欲望」(1992年)、「女体幻想」(1992年)など。
評論・伝記では「二十世紀文学の展望」(1953年)、「王朝文学の世界」(1963年)、「戦後文学の回想」(1963年)、「源氏物語の世界」(1968年)、「頼山陽とその時代」(1971年)、「建礼門院右京大夫」(1972年)、「愛と美と文学 わが回想」(1989年)など。翻訳では「双頭の鷲」(ジャン・コクトー、1953年)、「強盗紳士ルパン」(モーリス・ルブラン、1958年)、「モンテ・クリスト伯爵」(デュマ、1967年)、「伊勢物語・現代語訳」(1976年)、「堤中納言物語・現代語訳」(1976年)、「とりかえばや物語」(1992年)など。
・南原幹雄(1938~)
作家。本姓・安井。早稲田大学政治経済学部卒。1973年、「女絵地獄」で第21回小説現代新人賞を受賞しデビュー。戦国時代から江戸時代を舞台とした時代小説を多数執筆している。1981年、「闇と影の百年戦争」で第2回吉川英治文学新人賞を受賞。1997年、「銭五の海」で第17回日本文芸大賞を受賞。
代表作に「鴻池一族の野望」(1977年)、「修羅の絵師 鳥居清元」(1979年)、「天保悪の華」(1979年)、「にっぽん好色英雄伝」(1983年)、「疾風来り去る 幕末の豪商 中居屋重兵衛」(1983年)、「付き馬屋おえん」(1983年)、「北の黙示録」(1984年)、「元禄吉原大尽舞 奈良茂と紀文」(1985年)、「寛永風雲録」(1986年)、「天下の旗に叛いて」(1986年)、「御三家の黄金」(1988年)、「覇者の決まる日」(1988年)、「抜け荷百万石」(1990年)、「御三家の反逆」(1991年)、「幕府隠密帳」(1991年)、「灼熱の要塞」(1992年)、「百万石太平記」(1992年)、「謀将 直江兼続」(1993念)、「徳川御三卿」(1995年)、「隠密太平記」(1999年)などがある。
・平岩弓枝(1932~)
作家。現在の東京都渋谷区生まれ。日本女子大学国文科卒。太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、伯母の実家の福井県に疎開し、福井高等女学校(現在の福井県立藤島高等学校)に通った。戦後、東京に戻った平岩は、日本女子大学附属高等学校に通い、そこで友人と演劇部を結成して、「安寿と厨子王」などをもとにした脚本を執筆、上演した。そのころの同期に河内桃子などがいた。1955年(昭和30年)、日本女子大学国文科を卒業した平岩は戸川幸夫に師事、その後、長谷川伸主宰の新薦会に入会した。
古典芸能・古典文学の素養を生かして文筆活動を続け、1959年(昭和34年)
「鏨師(たがねし)」で第41回直木賞を受賞。以後、現代小説、時代小説、推理小説と多岐にわたる創作活動を展開。1974年には「御宿かわせみ」を発表し、その後も同シリーズの作品を次々と発表して、30年以上にわたるベストセラーシリーズとし、時代物の代表作に挙げられる。また、その後はTBS系テレビドラマ「ありがとう」をはじめとするテレビドラマや演劇の脚本を書くかたわら、小説も次々と発表している。
1986年、第12回菊田一夫演劇賞大賞、1989年、第9回日本文芸大賞、1990年「花影の花」で第25回吉川英治文学賞、1998年、第46回菊池寛賞をそれぞれ受賞。
・舟橋聖一(1904~1976年)
戯曲・小説家。東京市本所区横網町生まれ。キリストの降誕日にちなんで「聖一」と名付けられた。東京帝国大学文学部国文科卒。在学中に「朱門」の同人となり、河原崎長十郎、村山知義らとともに劇団「心座」の結成に参加し、戯曲を書いて上演した。
1926年(大正15年)、「新潮」に戯曲「白い腕」を発表し文壇デビューした。その後、明治大学で教鞭をとるかたわら、雑誌「行動」に参加して「ダイヴィング」を発表。行動主義、能動精神運動の中心となり、行動的ヒューマニズムによる現実改革者としての地位を確立した。
戯曲集「愛慾の一匙」を処女出版するなど多くの戯曲を書いたが、小説にも手を染め、1938年(昭和13年)雑誌「文学界」に発表した「木石」「母代」などによって、作家としての評価を確立した。
戦前とは一変、舟橋は戦後、「雪夫人絵図」(1948年)などの風俗小説で流行作家となった。1953年に「花の生涯」を刊行、最初のNHK大河ドラマとなった。1999年にも「新・忠臣蔵」(1957~61年)を原作とした「元禄繚乱」がNHK大河で放送された。「ある女の遠景」で毎日芸術賞受賞。代表作に「雪夫人絵図」「花の生涯」「絵島生島」「芸者小夏」「お市御寮人」「とりかへばや秘文」「真贋の記」などがある。
【記念館】舟橋聖一記念文篤館(ぶんとくかん,東京都新宿区下落合3-17-19)
・村上元三(1910~2006年)
作家。青山学院中等部卒。1934年、「サンデー毎日」懸賞小説で選外佳作となった「利根の川霧」でデビュー。浅草の剣戟俳優、梅沢昇の脚本を書いているうち、梅沢の紹介で長谷川伸を知り、師事した。1941年「上総風土記」により第12回直木賞受賞。
戦後に朝日新聞夕刊に当時タブーだった剣豪小説「佐々木小次郎」(1950~1951年)を1年ほど掲載。これを機に大衆文学復興の旗手となった。その後、北方物、人物評伝物、伝記物、海洋冒険物、芸道物、股旅物、お家騒動物と多彩な作品を執筆した。
1954年下半期から1989年下半期まで35年の長きにわたり、直木賞の選考委員を務め、現在最長在任記録となっている。
主な著書に「佐々木小次郎」「次郎長三国志」「田沼意次」「水戸黄門」「加賀騒動」「源義経」「加藤清正」「水戸光圀」「平賀源内」「岩崎弥太郎」などがある。
・吉村昭(1927~2006年)
小説家。東京府北豊島郡日暮里町(現在の東京都荒川区東日暮里)で、製綿工場の経営者の八男として生まれた。学習院大学文政学部文学科中退。旧制開成中学校(開成高等学校の前身)在学中、日本の古典文学などを読むようになり、読書の楽しさを知った。大学在学中、作家を志望するようになった。川端康成、梶井基次郎に傾倒したほか、教授の紹介で三島由紀夫に会った。
1959年「鉄橋」、「貝殻」、1962年「透明標本」、「石の微笑」がそれぞれ芥川賞候補となったが、受賞を果たせなかった。
1966年「星への旅」で第2回太宰治賞受賞。1972年「深海の使者」で第34回文藝春秋読者賞、1973年「戦艦武蔵」、「関東大震災」など一連のドキュメント作品により第21回菊池寛賞受賞。1979年「ふぉん・しいほるとの娘」で吉川英治文学賞受賞。1985年「冷い夏、熱い夏」で毎日芸術賞受賞。「破獄」で読売文学賞受賞。1994年「天狗争乱」で大佛次郎賞を受賞。
代表作に「冬の鷹」「長英逃亡」「桜田門外の変」「ニコライ遭難」「海の史劇」「日本医家伝」「間宮林蔵」「海の祭礼」「ポーツマスの旗」「白い航跡」「黒船」「花渡る海」「雪の花」「三陸海岸大津波」など多数。
【記念館】北海道立文学館(北海道札幌市中央区中島公園1-4)
・三好徹(1931~)
小説家。本名は河上雄三。旧制横浜高等商業学校(現在の横浜国立大学経済学部)卒。1950年、読売新聞社に採用試験首席の成績で入社。同期に渡辺恒雄(通称ナベツネ)がいた。読売の先輩、菊村到の勧めで読売新聞社記者のかたわら小説を発表。1966年長編推理小説「光と影」で作家デビュー、同年「風塵地帯」で日本推理作家協会賞を受賞。
1968年「聖少女」で第58回直木賞受賞。ミステリー、歴史小説、現代小説、ノンフィクションなど幅広い分野で活躍。初期は左翼的傾向があったが、近年は明治の元勲や近代の政治家、幕末・明治期の伝記小説が多い。
代表作に「天馬の如く 近代ジャーナリスト列伝」(1982年)、「興亡と夢」(1986年)、「沖田総司」(1972年)、「土方歳三」(1988年)、「板垣退助」(1984年)、「徳川慶喜」(1997年)、「明治に名参謀ありて」(1999年)、「日本宰相伝」シリーズ、「政商伝」(1993年)、「へんくつ一代」(1989年)、「高杉晋作」(1988年)など多数。
神奈川県
・吉川英治(1892~1962年)
作家。本名は英次(ひでつぐ)。神奈川県久良岐郡中村根岸(現在の横浜市南区)で旧小田原藩士の家に次男として生まれた。「英治」のペンネームは作品が掲載される際、出版社が「英次」を誤って「英治」としてしまったのを、本人が気に入り、以後ペンネームとするようになったもの。
幼少のころ、父の事業の失敗で家運傾き、横浜市・太田尋常小学校を中退。様々な職業を転々としながら懸賞小説などに応募。東京毎夕新聞社勤務を経て本格的な創作活動に入った。
1925年、この年創刊されたキング誌に「剣難女難」を連載、人気を得た。このとき初めて「吉川英治」の筆名を使った。1926年「鳴門秘帳」を連載、大人気となり、時代小説家として大衆文学界の重鎮となった。1935年から連載が始まった「宮本武蔵」は広範な読者を獲得し、大衆小説の代表的な作品となった。戦後は「新・平家物語」(1951年)、「私本太平記」(1959年)などの大作を執筆。幅広い読者層を獲得し、“国民文学作家”と呼ばれた。
1953年に「新・平家物語」で第1回菊池寛賞を受賞、同作品で1956年、朝日賞を受賞。1960年に文化勲章受章、1962年に毎日芸術大賞受賞。
このほか、代表作に「神州天馬峡」(1926年)、「新編 忠臣蔵」(1936年)、「親鸞」(1938年)、「三国志」(1940年)、「新書 太閤記」(1941年)、「黒田如水」(1943年)、「大岡越前」(1950年)、「新 水滸伝」(1960年)。
吉川の作品は原作本として、数多くのNHK大河ドラマに使われている。「太閤記」(1965年)、「新・平家物語」(1972年)、「太平記」(1991年)、「武蔵MUSASHI」(2003年)。
【記念館】吉川英治記念館(東京都青梅市柚木町1-101-1)
山梨県
・山本周五郎(1903~1967年)
作家。本名は清水三十六(しみずさとむ)。山梨県北都留郡初狩村(現在の山梨県大月市初狩町下初狩)で父・逸太郎の長男として生まれた。関東大震災の後の豊橋・神戸への転居を含め、生涯に東京・千葉・横浜などで10回ほどの転居をしている。
横浜市立尋常西前小学校(現在の横浜市立西前小学校)卒業と同時に東京木挽町2丁目(現在の銀座2丁目)にあった質店の山本周五郎商店に徒弟として住み込んだ。関東大震災の翌年、再び上京。帝国興信所(現在の帝国データバンク)に入社。その後、同社の子会社、日本魂社に転籍した。
26年、「須磨寺附近」が「文藝春秋」に掲載され、文壇出世作となった。「小説 日本婦道記」が43年上期の直木賞に推されたが、受賞を固辞。58年、大作「樅の木は残った」を完成。以後、「赤ひげ診療譚」(58年)、「青べか物語」(60年)、「五辨の椿」(59年)、「大飯介始末」、「日日平安」、「さぶ」(62年)、「虚空遍歴」(66年)、「おさん」、「正雪記」(53~54年、56年)「ながい坂」(64年)、「栄花物語」(53年)、「天地静大」(59年)、「松風の門」、「ちいさこべ」、「人情裏長屋」「花杖記」「あんちゃん」「彦左衛門外記」「風流太平記」「夜明けの辻」「髪かざり」「人情武士道」「風雲海南記」など多数。
山本周五郎の作品は映画化、テレビドラマ化されることが多い。黒澤明監督も「日々平安」「赤ひげ診療譚」「季節のない街」「雨あがる」(遺作)の4作を映画化している。
【記念館】神戸記念館(神戸市灘区王子町3丁目1番2号)
長野県
・窪田空穂(1877~1967年)
歌人・国文学者。名は通治。長野県東筑摩郡和田村(現在の長野県松本市和田)生まれ。旧制松本中学(現在の長野県松本深志高等学校)から東京専門学校(現在の早稲田大学)文学科に進学。一度中退し、復学して卒業。中退、代用教員として働いていたときに作歌を始め、与謝野鉄幹の「明星」にも一年ほど参加している。
文学雑誌の編集者などに携わり、国文学への関心を深めた。1914年に「国民文学」を創刊。早稲田大学国文科講師、後に教授も務めた。歌風は客観性を重んじて生活実感を歌い上げ、抒情性に富む。
歌集「まひる野」(1905年)、「鳥声集」(1916年)、「鏡葉」(1926年)、「さされ水」(1934年)、「郷愁」(1937年)、「冬木原」(1951年)、「丘陵地」(1957年)、代表的著書に「万葉集評釈」(1943年)、「古今和歌集評釈」(1935、37年)、「新古今和歌集評釈」(1932~33年)など。
【記念館】窪田空穂記念館(長野県松本市大字和田1715-1)
・島木赤彦(1876~1926年)
歌人。本名は久保田俊彦。別号は柿乃村人。長野県諏訪郡上諏訪村角間(現在の長野県諏訪市元町)生まれ。長野県尋常師範学校(現在の信州大学教育学部)を卒業し、教職のかたわら短歌をつくった。正岡子規の歌集に魅せられ傾倒。
1903年(明治36年)、雑誌「比牟呂」を創刊。伊藤左千夫に師事。斎藤茂吉・古泉千樫とともに「アララギ」を編集。伊藤左千夫の死後、1915年(大正4年)茂吉に代わって「アララギ」の編集兼発行人となった。写生主義に立脚し、実相観入と万葉調とを強調。赤彦独特の歌風を確立。アララギ派の歌壇での主流的基盤構築に貢献した。
代表的作品は、歌書で「歌道小見」(1924年)、「万葉集の鑑賞及び其の批評」(1925年)、歌集で「馬鈴薯の花」(1913年)、「切火」(1915年)、「氷魚」(1920年)、「太虚集」(1924年)、童謡集で「赤彦童謡集」(1922年)、「第二赤彦童謡集」(1923年)、「第三赤彦童謡集」(1926年)など。
【記念館】諏訪湖博物館・赤彦記念館(長野県諏訪郡下諏訪町西高木10616-111)
・新田次郎(1912~1980年)
作家、気象学者。本名は藤原寛人(ひろと)。妻は作家の藤原てい、数学者でエッセイストの藤原正彦は次男。長野県諏訪郡上諏訪町(現在の長野県諏訪市)角間新田(かくましんでん)生まれ。ペンネームは“新田の次男坊”から。1932年、無線電信講習所(現在の電気通信大学)を卒業後、中央気象台(現在の気象庁)に就職、富士山測候所勤務などを経験する。
1943年、満州国観象台(中央気象台)に高層気象課長として転職。1945年、新京でソ連軍に捕虜とされ、中国共産党軍で一年間抑留生活を送った。1946年帰国、中央気象台に復職した。1951年、「サンデー毎日」第41回大衆文藝に「強力伝」を応募し、現代の部で一等に輝き、作家活動を始めた。丹羽文雄主宰の「文学者」の同人になった。
1956年「強力(ごうりき)伝」で第34回直木賞を受賞。1966年、気象庁を退職。「孤高の人」「八甲田山死の彷徨」など山岳小説の分野を拓く。次いで歴史小説にも力を注ぎ、1974年「武田信玄」などで吉川英治賞を受賞。このほか、「アラスカ物語」「小笠原始末記」「武田勝頼」「新田義貞」などがある。
新田の作品は「富士山頂」(1970年)、「八甲田山」(1977年)、「アラスカ物語」(1977年)、「聖職の碑」(1978年)、「剣岳 点の記」(2009年)のタイトルで映画化されている。
没後、その遺志により「新田次郎文学賞」が設けられた。
静岡県
・大岡信(1931~)
詩人・文芸評論家。静岡県田方郡三島町(現在の静岡県三島市)生まれ。東京大学文学部国文科卒。芥川賞作家の大岡玲は長男。大岡は学生時代から詩人として注目され、読売新聞社外報部記者を経て、明治大学教授となった。
詩、戯曲、評論などの分野で活躍。1979年(昭和54年)から2007年(平成19年)まで朝日新聞で「折々のうた」を連載。日本ペンクラブ11代会長も歴任した。大岡の詩は英語、オランダ語、フランス語、ドイツ語、中国語、スペイン語、マケドニア語などに訳されている。
評論集「蕩児の家系 日本現代詩の歩み」で藤村記念歴程賞(1969年)はじめ、「紀貫之」で読売文学賞(1972年)、「折々のうた」執筆活動で菊池寛賞(1980年)、「詩人 菅原道真うつしの美学」で芸術選奨(1990年)、文化勲章(2003年)、「レジオンドヌール勲章」(2004年)などを受賞・章している。
主な著書は「折々のうた」(1980~92年)、「新 折々のうた」(1994~2007年)、「新編 折々のうた」(1983~94年)、「うたの歳時記」(1985~86年)、「四季 うたごよみ 恋 春夏秋冬」(1985~86年)、「現代詩の鑑賞101」(1996年)。主な評論・詩論・評伝に「現代詩論ユリイカ」(1955年)、「文明の中の詩と芸術」(1966年)、「現代詩人論」(1969年)、「狩月記 文学的断章」(1973年)、「今日も旅ゆく 若山牧水紀行」(1974年)、「風の花嫁たち 古今女性群像」(1975年)、「岡倉天心」(1975年)、「子規・虚子・花神社」(1976年)、「明治・大正・昭和の詩人たち」(1977年)、「日本詩歌紀行」(1978年)、「小倉百人一首」(1980年)などがある。
・木下杢太郎(1885~1945年)
医学者・詩人・劇作家。本名は大田正雄。静岡県賀茂郡湯川村(現在の静岡県伊東市)生まれ。現在の名古屋大学、東北大学などのそれぞれ医学部教授を歴任した後、最後に東京大学医学部教授を務めた。家業は「米惣」という雑貨問屋だった。その生家は杢太郎記念館として保存されている。
1906年(明治39年)、東京帝国大学医科大学へ進学。1907年(明治40年)、与謝野鉄幹の新詩社の機関誌「明星」の同人となり、北原白秋、石川啄木、吉井勇らと親交を深めた。九州北部の南蛮遺跡を探訪し、南蛮情緒の濃いキリシタン趣味の耽美享楽的な詩を詠んだ。
大学卒業後は家人の反対から芸術への道を諦め、医学の道を志し、親交のあった森鴎外の勧めに従い、皮膚科の土肥慶蔵教授についた。1921年(31歳)~1924年(35歳)まで米欧に留学し、医学研究に努め、かたわら語学の研鑽と各国の文献を収集した。1924年に帰国、愛知、宮城などで医学部教授として教鞭をとった。1937年、東京帝国大学医学部教授となり、皮膚科学講座を担当。伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の研究員も兼ね、癩病の研究を進め、次第に世界的権威と目されるようになった。
医学者として究めた木下だが、詩人、劇作家の途も決して捨てたわけではなかった。異国情緒と江戸趣味を融合した詩風は日本近代詩に新風を吹き込んだ。北原白秋と「スバル」「屋上庭園」を発刊。キリシタン・美術史の研究にも多くの業績を残した。最初の詩集「食後の唄」(1919年)、戯曲「和泉屋染物店」(1912年)、戯曲「南蛮寺門前」(1914年)、小説「唐草表紙」(1915年)、美術論「印象派以後」(1916年)、訳書ルイス・フロイス「ルイス・フロイス日本書翰」(1931年)などがある。
愛知県
・井沢元彦(1954~)
作家。早稲田大学法学部卒。TBS報道記者を経て作家活動に入った。報道記者時代の1980年、「猿丸幻視行」で第26回江戸川乱歩賞を受賞。1981年の「本廟寺焼亡」で推理文壇に独自の地位を築いた。代表作に1992年から執筆開始した「逆説の日本史」シリーズがある。
「逆説の日本史」は、歴史学者や学術関係者たちがこれまで是としてきた史観・諸説と一線を画し、独自の視点で歴史事象・事件の経緯・背景を洗い直し、論を組み立てて、日本史の真の姿に迫ろうと試みている点が特徴だ。その取材や思索過程でテーマとなった例えば古代、卑弥呼から、天智天皇、「壬申の乱」、六歌仙、源義経、足利義満、武田信玄、織田信長、忠臣蔵などに関わる作品を発表している。
主な著作に「六歌仙暗殺考」(1982年)、「修道士の首 織田信長推理帳」(1983年)、「ダビデの星の暗号」(1985年)、「五つの首 織田信長推理帳」(1985年)、「光と影の武蔵 切支丹秘録」(1985年)、「義経幻殺録」(1986年)、「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」(1988年)、「芭蕉魔星陣」(1988年)、「義経はここにいる」(1989年)、「隠された帝 天智天皇暗殺事件」(1990年)、「暗鬼」(1987年)、「天皇になろうとした将軍」(1992年)、「日本史叛逆者 私説壬申の乱」(1994年)、「GEN 源氏物語秘録」(1995年)、「信玄の呪縛」(1991年)、「卑弥呼伝説」(1991年)、「歴史不思議物語」などがある。
・城山三郎(1927~2007年)
小説家。海軍特別幹部候補生で終戦を迎える。46年東京商科大学(現一橋大)入学。卒業後、愛知学芸大学で景気論を講義するかたわら書いた小説「輸出」
で文学界新人賞を受賞。59年「総会屋錦城」で第40回直木賞を受賞。他に「小説日本銀行」「落日燃ゆ」「粗にして野だが卑ではない 石田礼助の生涯」「もう君には頼まない 石坂泰三の世界」「男子の本懐」「辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件」「鼠 鈴木商店焼き打ち事件」「野生のひとびと」「大義の末」「冬の派閥」「雄気堂々」「秀吉と武吉」「男たちの経営」「気張る男」「風雲に乗る」「成算あり」「価格破壊」「外食王の飢え」「梅は匂い 人はこころ」「燃えるだけ燃えよ 本田宗一郎との100時間」「ビッグボーイの生涯 五島昇その人」「わしの眼は十年先が見える 大原孫三郎の生涯」「黄金の日日」「毎日が日曜日」「創意に生きる-中京財界史-」「午前八時の男たち トップが語る強い企業の秘密」「勇者は語らず」「官僚たちの夏」「男たちの好日」「役員室午後三時」「打たれ強く生きる」「乗っ取り」「真昼のワンマン・オフィス」「素直な戦士たち」「打出小槌町一番地」「逃亡者」「重役養成計画」「緊急重役会」「当社別状なし」「学・経・年・不問」など多数。
・連城三紀彦(1948~)
作家。名古屋市生まれ。早稲田大学政経学部卒。本名は加藤甚吾。探偵小説専門誌「幻影城」でデビュー。大胆な仕掛けや抒情性あふれる文体を用いたトリッキーな作風で評価を得た。しかし、一般に広く知られるのは直木賞を受賞した「恋文」で、これは大衆小説だ。ただ、作品路線が完全に変わったわけではなく、その後も謀略サスペンスや誘拐ものなど多彩なミステリーものも書いている。
1978年「変調二人羽織」で第3回幻影城新人賞。1981年「戻り川心中」で第34回日本推理作家協会賞(短編)、1984年「宵待草夜情」で第5回吉川英治文学新人賞、同年「恋文」で第91回直木賞をそれぞれ受賞。1985年、仏門に入り、本願寺で得度(法名は智順)。1年間休業。1996年「隠れ菊」で第9回柴田錬三郎賞を受賞している。
主な著書に「残紅」(1985年)、「青き犠牲(いけにえ)」(1986年)、「花堕ちる」(1987年)、「飾り火」(1989年)、「美の神たちの叛乱」(1992年)、「愛情の限界」(1993年)、「終章からの女」(1994年)、「花塵」(1994年)、「恋」(1995年)、「秘花」(2000年)、「ゆきずりの唇」(2000年)、「人間動物園」(2002年)、「白光」(2002年)、「造花の密」(2008年)、「暗色コメディ」「密やかな喪服」「瓦斯灯」「夕萩心中」「離婚しない女」「蛍草」などがある。
石川県
・杉森久英(1921~1997年)
作家。石川県七尾市生まれ。東京帝国大学国文科卒。教職の後、中央公論編集部に入社。戦後、河出書房の「文藝」編集長(1947年)を経て、短編小説「猿」が芥川賞の候補になったのを機に文筆生活に入った。
1962年、同郷の島田清次郎の伝記小説「天才と狂人の間」で第47回直木賞を受賞。以後、「辻政信」(1963年)、「啄木の悲しき生涯」(1965年)、「苦悩の旗手 太宰治」(1967年)、「近衛文麿」(1986年、毎日出版文化賞受賞)などの傑作評伝を発表。93年、第41回菊池寛賞を受賞。
他に長編「天皇の料理番」(1979年)はじめ「明治天皇」(1986年)、「小説菊池寛」(1987年)、「小説 坂口安吾」(1978年)、「徳田球一」(1964年)、「大風呂敷」(後藤新平の伝記、1965年)、「滝田樗陰 ある編集者の生涯」(1966年)、「浪人の王者 頭山満」(1967年)、「夕陽将軍 小説 石原莞爾」、「美酒一代 鳥井信治郎伝」(1966年)、「新渡戸稲造」(1991年)など幅広い英傑・偉人たちの伝記小説を発表しているのが目を引く。
福井県
・大島昌宏(1934~1999年)
作家。福井市生まれ。日本大学芸術学部映画学科卒業後、広告制作会社に勤務し、多くのテレビCMを手がける。
92年「九頭竜川」で第11回新田次郎文学賞を、94年「罪なくして斬らる 小栗上野介」で第3回中山義秀文学賞をそれぞれ受賞。
著書は他に「そろばん武士道」(1996年)、「北の海鳴り 小説 中島三郎助」(1995年)、「結城秀康 秀吉と家康を父に持つ男」(1998年)、「柳生宗矩 徳川三代を支えた剣と智」(1999年)、「幕末写真師 下岡蓮杖」(1999年)、「海の隼 参謀・三浦按針」(1999年)などがある。
三重県
・丹羽文雄(1904~2005年)
作家。三重県四日市市、浄土真宗の末寺(専修寺髙田派)に生まれる。早稲田大学文学部国文科卒。高校時代(第一早稲田高等学校)、丹羽はすでに文学者を志望していた。在学中、上級生の尾崎一雄と知り合い、文学面でも大きな感化を受け、尾崎の紹介で火野葦平らが発行していた同人誌「街」に加わり、小説「秋」を寄稿した。「街」廃刊後は尾崎らと同人誌「新正統派」を創刊し精力的に小説を発表した。
1929年、早稲田大学卒業後、生家の寺で僧職に就いた。だが、同人誌「新正統派」に発表した小説「朗らかなある最初」が永井龍男によって評価され、彼の依頼で書いた「鮎」が文壇で注目され、僧職を捨てて上京した。1932年の大学在学中より執筆した小説が尾崎一雄から認められ、「鮎」が「文芸春秋」に発表されて出世作になった。
戦後は東京・銀座を舞台とした風俗小説が人気を博し、一躍流行作家となる一方、「親鸞」「蓮如」などの宗教者を描いた小説を多く残した。文壇の大御所的存在で、後進との交流にも熱心だった。1950年代には同人誌「文学者」を主宰、瀬戸内寂聴、吉村昭、津村節子たちを育成した。また、舟橋聖一とは自他ともに認めるライバル関係だった。
代表作に「青麦」「菩提樹」「一路」(読売文学賞)、そして出自からライフワークともいうべき「親鸞」(5巻、仏教伝道文化省)、「無慚無愧」「蓮如」(8巻、野間文芸賞)、「ひと我を非情の作家と呼ぶ」「わが母、わが友、わが人生」などがある。菊池寛賞受賞(1974年)、文化勲章受章(1977年)。
【記念館】丹羽文雄記念室(三重県四日市市立図書館)
京都府
・村上春樹(1949~)
作家。京都市伏見区生まれ、兵庫県西宮市・芦屋市で育った。早稲田大学文学部映画演劇科卒。ジャズ喫茶の経営を経て、1976年「風の歌を聴け」でデビュー、群像新人賞受賞。当時のアメリカ文学から影響を受けた文体で都会生活を描いて注目を浴び、村上龍とともに時代を代表する作家と目された。1987年発表の「ノルウェイの森」は上下430万部を売るベストセラーとなり、これをきっかけに村上春樹ブームが起き、以後は国民的支持を集めている。2006年、特定の国民性に捉われない世界文学へ貢献した作家に贈られるフランツ・カフカ賞を受賞し、以後、ノーベル文学賞の有力候補と見なされている。桑原武夫学芸賞(1999年)、朝日賞(2007年)、バークレー日本賞(2008年)、エルサレム賞(2009年)、毎日出版文化賞(2009年)など受賞。
主な作品に「羊をめぐる冒険」(野間文芸新人賞)、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(谷崎潤一郎賞受賞)、「ねじまきクロニクル」(読売文学賞)、「ノルウェイの森」「アンダーグラウンド」「スプートニクの恋人」「海辺のカフカ」「1Q84」など多数。
・山崎正和(1934~)
劇作家・評論家。京都市生まれ。京都大学文学部哲学科美学美術史専攻卒業。同大学院博士課程中退。イェール大学演劇科留学。関西大学文学部教授、大阪大学文学部教授を経て東亜大学大学院教授。大学院在学中から戯曲を書き、1963年「世阿弥」で岸田国士戯曲賞を受賞。その後、旺盛な評論活動に入り、1972年、森鴎外を新しい視点から論じた「鷗外 闘う家長」で読売文学賞、近代日本文明論「劇的なる日本人」で芸術選奨新人賞受賞。1984年には現代日本文化論「柔らかい個人主義の誕生」で吉野作造賞を受賞。米国論、室町時代論など対象は幅広く、「太平記」の現代語訳もしている。
多くの戯曲を発表する他に、文芸および文明評論家として芸術論から文明批評まで多彩な分野で活躍した。近年は福沢諭吉の「脱亜入欧」論に倣い、「脱亜入洋」(洋=オセアニア)論を唱えている。また、喫煙規制に対し過剰な公権力の介入として、一連の規制を「禁煙ファシズム」などと批判している。
著書は「世阿弥」「鷗外 闘う家長」「病み上がりのあめりか」「不機嫌の時代」「柔らかい個人主義の誕生」「文明の構図」「歴史の真実と政治の正義」「文明としての教育」など多数。
・与謝野鉄幹(1873~1935年)
詩人・歌人。本名は寛、鉄幹は号。晶子の夫。のちに慶應義塾大学教授、文化学院学監などを務めた。京都府岡崎(現在の京都市左京区)で西本願寺支院、願成寺の僧侶、与謝野礼厳の四男として生まれた。1883年(明治16年)、大阪府住吉郡の安養寺の安藤秀乗の養子となり、1891年まで安藤姓を名乗った。1889年(明治22年)には西本願寺で得度も受けている。
落合直文に学び、浅香社・東京新詩社の創立、「明星」の刊行に尽力。新派和歌運動に貢献。自社の詩を主張。北原白秋、吉井勇、石川啄木などを見い出し日本近代浪漫派の中心的な役割を果たした。
ただ、鉄幹が創作活動を含め光り輝いていたのは、後に結ばれる鳳晶子の才能を見い出し「みだれ髪」をプロデュースしたころまでだった。先妻と離婚し、晶子との結婚後の鉄幹は極度の不振に陥り、ますます創作活動が盛んになり、高い評価を得ていった晶子とは対照的だった。その後もスランプを抜け出せず、鉄幹は歌人としては、栄光に包まれる妻の影で苦悩にあえぐ生涯を送ることになった。
詩歌集「東西南北」「天地玄黄」、歌集「相聞」など。
【記念館】城崎町文芸館(兵庫県豊岡市城崎町湯島357番地の1)
大阪府
・開高健(1930~1989年)
作家。天王寺生まれ。大阪市立大学法文学部在学中、様々な職業に就き、卒業後、寿屋(現サントリー)宣伝部に中途採用されPR誌「洋酒天国」を編集。ウイスキーのキャッチコピーも手掛けた。このときの作品、「トリス」の「人間らしくやりたいナ」などはよく知られている。この時代、1957年、処女作「パニック」はじめ、「巨人と玩具」「裸の王様」を発表。「裸の王様」で第38回芥川賞を受賞。これを機に寿屋を退職、執筆業に専念するようになった。
凄烈なベトナム戦争の取材体験をもとに書いた「輝ける闇」(1968年)で毎日出版文化賞、「玉、砕ける」(1978年)で川端康成文学賞、「耳の物語」(1987年)で日本文芸大賞、1981年に菊池寛賞をそれぞれ受賞している。
人間の原点と社会の組織に目を向け、現代社会と取り組むエネルギッシュな作家的姿勢を一貫して保った。既述以外の主な作品に「日本三文オペラ」「流亡記」「ロビンソンの末裔」「ヴェトナム戦記」などがある。
死後、開高健の業績を記念して1992年から2001年までTBSブリタニカ(現在の阪急コミュニケーションズ)が開高健賞を、2003年から集英社がノンフィクションを対象に開高健ノンフィクション賞を創設している。
【記念館】開高健記念館(神奈川県茅ヶ崎市東海岸南6-6-64)
・黒岩重吾(1924~2006年)
小説家。同志社大学法学部卒業後、日本勧業証券(現在のみずほインベスターズ証券)に入社。1949年に大学在学中、学徒出陣で出征した北満での体験をもとに書いた「北満病棟記」が「週刊朝日」の記録文学コンクールに入選。同人誌「文学者」のグループに参加した。が、その後、株相場大失敗し荒れた生活を送った。
様々な職業遍歴後、1960年「休日の断崖」で文壇に登場。1961年、釜ヶ崎を舞台にした「背徳のメス」で第44回直木賞を受賞。1970年後半から古代史を舞台にした歴史小説の執筆を始めた。執筆した順番は異なるが、その範囲は卑弥呼の時代から、蘇我氏が表舞台に登場する時代、馬子と物部守屋の対立時代、聖徳太子およびその一族、推古天皇、天智天皇・藤原鎌足の時代、壬申の乱、天武天皇、持統天皇、藤原不比等の時代まで、そして蘇我入鹿、額田王、大津皇子、弓削道鏡にスポットを当てた作品など実に多彩だ。
その結果、著書には一連の古代史を題材にした作品が多い。代表作は80年に第14回吉川英治文学賞を受賞した、「壬申の乱」を大海人皇子サイドから捉えた長編「天の川の太陽」ほか、「紅蓮の女王 小説 推古女帝」「天翔る白日 大津皇子」「落日の王子 蘇我入鹿」「聖徳太子 日と影の王子」「斑鳩王の慟哭」「茜に燃ゆ」「北風に起つ 継体戦争と蘇我稲目」「磐舟の光芒 物部守屋と蘇我馬子」「天風の彩王 藤原不比等」「鬼道の女王 卑弥呼」「弓削道鏡」など多数。一連の作品により、菊池寛賞も受賞している。
・五味康祐(1921~1980年)
作家。大阪難波生まれ。本名は「やすすけ」だが、通称「こうすけ」。早稲田大学英文科中退。明治大学文学部文芸学科卒業。実家は映画興行師だった。学徒出陣し、中国大陸を転戦。敗戦後、南京で捕虜として過ごし復員後、各種の職業を転々とした後、「喪神」により52年、芥川賞を受賞。この「喪神」は大映で映画化された。以後、歴史・時代小説作家として、剣豪小説のブームを作る。
1956年、創刊された「週刊新潮」に「柳生武芸帳」(1956~59年)を連載し、同時期連載の柴田錬三郎の「眠狂四郎無頼控」と並んで人気を博した。柳生武芸帳は徳川幕府初期の柳生宗矩と一族による陰謀を描いた作品で、日本浪漫派の影響の濃い剣の達人の持つ精神性と、格調高い文体で高く評価された。
このほか「二人の武蔵」(1957年)、「スポーツマン一刀斎」(1957年)「薄桜記」(1959年)、「乱世群盗伝」(1959年)、「剣には花を」(1964年)、「無刀取り」(1970年)、「斬るな彦斎 幕末必殺剣」(1970年)、「興行師一代」(1973年)、「五味マージャン大学 10戦9勝の奥義」(1976年)、「柳生宗矩と十兵衛」(1978年)、「柳生天狗党」(1981年)など作品多数。
・堺屋太一(1935~)
作家。経済評論家。本名は池口小太郎。60年、東大経済学部卒業後、通商産業省に入省。イベントプロデューサーとして日本万国博を企画、開催。沖縄海洋博やサンシャイン計画にも携わった。78年、工業技術院研究開発官を最後に退官。以来、テレビ、新聞、雑誌などで幅広い創作・評論活動をしている。元国務大臣・経済企画庁長官。
1975年、通産省在職中に近未来の社会を描いた小説「油断」で作家としてデビュー。1976年に発表した小説「団塊の世代」は、第一次ベビーブーム世代(1947~49年生まれ)の名付け親ともなったほか、現代日本の社会に大きな影響を与えた。
歴史小説「峠の群像」(1981~82年)、「秀吉」(1996年)はNHK大河ドラマの原作となった。このほか、工業社会の終焉と“知価社会”(情報化社会)の到来を予言した経済理論「知価革命 工業社会が終わる・知価社会が始まる」(1985年)などの社会評論に関する著作や、首都機能移転に関する「『新都』建設 これしかない日本の未来」(1990年)をはじめとした公共政策分野における政策提言に関する著作も多数著している。
主な著書に「巨いなる企て」(1980年)、「豊臣秀長 ある補佐役の生涯」(1985年)、「鬼と人と 信長と光秀」(1989年)、「俯き加減の男の肖像」(1995年)、「世界を創った男チンギス・ハン1~4」(2007年)、「三人の二代目」(2009年)、評論で「三脱三創」(1986年)、「歴史からの発想」(1983年)、「峠から日本が見える」(1982年)、「組織の盛衰」(1993年)、「満足化社会の方程式 乱期を解く」(1994年)、「団塊の世代『次』の仕事」(2006年)などがある。
・司馬遼太郎(1923~1996年)
作家。大阪外国語学校蒙古語科卒。60年「梟の城」で第42回直木賞受賞。66年「竜馬がゆく」「国盗り物語」で菊池寛賞受賞。72年「世に棲む日日」を中心にした作家活動で吉川英治文学賞受賞。76年日本芸術院恩賜賞受賞。
82年「ひとびとの足音」で読売文学賞受賞。84年「街道をゆく 南蛮のみちⅠ」で日本文学大賞受賞。87年「ロシアについて」で読売文学賞受賞。88年「韃靼疾風禄」で大仏次郎賞受賞。93年、文化勲章受賞。このほか代表作に「燃えよ剣」「坂の上の雲」「菜の花の沖」「峠」「花神」「胡蝶の夢」「播磨灘物語」「箱根の坂」「翔ぶが如く」「項羽と劉邦」「功名が辻」「夏草の賦」「歳月」「妖怪」「幕末」「最後の将軍」「北斗の人」「王城の護衛者」「アームストロング砲」「尻喰らえ孫市」「空海の風景」「酔って候」「歴史を紀行する」「八人との対話」、そして「街道をゆく」シリーズなどがある。96年2月12日、10年間続いた『文芸春秋』の巻頭随筆「この国のかたち」は著者の死をもって未完のまま終わることになった。
【記念館】司馬遼太郎記念館(大阪府東大阪市下小阪3丁目11番18号)
・高村薫(1953~)
作家。本名は林みどり。大阪市東住吉区生まれ。吹田市在住。同志社高校を経て、国際基督教大学教養学部仏文専攻を卒業。外資系専門商社退職後の90年、「黄金を抱いて翔べ」で日本推理サスペンス大賞を受けデビュー。
1993年「リヴィエラを撃て」で日本推理作家協会賞。「マークスの山」で第109回直木賞を受賞。1997年「レディ・ジョーカー」を発表。従来のミステリーの枠組みを超えた骨太で斬新、重厚な作品を生み続けている。単行本から文庫化するにあたって大幅な改稿を行うことが多い。
上記以外の代表作に「神の火」(1991年)、「わが手に拳銃を」(1992年)、「地を這う虫」(1993年)、「照柿」(1994年)、「新リア王」(2005年)など。
・田辺聖子(1928~)
小説・評論・随筆家。大阪市生まれ、兵庫県伊丹市在住。1947年、樟蔭女子専門学校(現在の大阪樟蔭女子大学)国文科卒。放送作家などを経て、「感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)」で1964年、第50回芥川賞を受賞。大阪弁を使う恋愛小説に市民権を与えた。1993年「ひねくれ一茶」で吉川英治文学賞を受賞するなど歴史小説も多い。1994年に第42回菊池寛賞を受賞したほか、1998年「道頓堀の雨に別れて以来なり-川柳作家・岸本水府とその時代」で第26回泉鏡花文学賞、1999年には同じ作品で第50回読売文学賞、2003年「姥ざかりの花の旅傘」で第8回蓮如賞、2007年には2006年度朝日賞をそれぞれ受賞している。
軽妙洒脱でユーモラスな小説を主体に、歴史エッセイ、評論、随筆など幅広い活動をしている人気作家。古典の翻訳では「新源氏物語」「舞え舞え蝸牛」「源氏たまゆら」など、評伝では「千すじの黒髪 わが愛の與謝野晶子」「花衣ぬぐやまつわる わが愛の杉田久女」「ゆめはるか 吉屋信子」などがある。
上記以外の小説に「花狩」「甘い関係」「うたかた」「女の食卓」「求婚旅行」など、エッセイに「女の長風呂」「言うたらなんやけど」「おセイさんのほろ酔い対談」「ああカモカのおっちゃん」「芋たこ長電話」「女の居酒屋」など多数。
【記念館】田辺聖子文学館(東大阪市菱屋西4丁目2番26号 大阪樟蔭女子大学小阪キャンパス図書館内)
・直木三十五(1891~1934年)
作家。本名は植村宗一。大阪市南区(現在の中央区)内安堂寺町2丁目に生まれた。早稲田大学英文科中退。美術記者、編集者、評論家、コラムニストを経験。1920年に里見弴、久米正雄、吉井勇、田中純らによって創刊された同人誌「人間」の編集を担当。1923年の関東大震災後は大阪のプラトン社に勤務し川口松太郎ととみに娯楽雑誌「苦楽」の編集にあたった。
以後、次第に時代小説を書くようになり、1929年「由比根元大殺記」で作家として認められた。「黄門廻国記」は俳優・月形龍之介の主演した映画「水戸黄門」の原作にもなった。ほかにも直木作品を原作とした映画は多く、恐らく50本近くあると思われる。
薩摩藩のお由羅騒動を描いた「南国太平記」が代表作。直木が亡くなった翌年、1935年文藝春秋社長・菊池寛はその友情から、芥川賞とともに直木三十五賞を設定した。忌日の2月24日は代表作「南国太平記」にちなんで「南国忌」という。
ペンネーム「直木」は本名の「植」の字を分解したもので、「三十五」は年齢をもとにしたもの。実年齢に合わせて「三十一」「三十三」などのペンネームで残した作品がある。
著作は上記以外に「心中きらら阪」(1924年)、「仇討十種」(1924年)、「合戦」(1928年)、「正伝 荒木又右衛門」(1930年)、「青春行状記」(1931年)、「楠木正成」(1932年)、「日本の戦慄 上海篇」(1932年)、映画脚本は「恩讐の彼方」(1925年)、「室町御所」(1925年)、「忠弥召捕」(1926年)、「一寸法師」(1927年)、「炎の空」(1927年)などがあり、「一寸法師」は監督も務めた。
【記念館】直木三十五記念館(複合文化施設-萌、大阪市中央区谷町6-5-26)
・山崎豊子(1924~)
作家。本名は杉本豊子。現在の大阪市中央区出身、大阪府堺市在住。大阪市の老舗昆布商店、小倉屋山本の家に生まれた。旧制京都女子専門学校(現在の京都女子大学)国文科卒。毎日新聞社学芸部に勤務。当時、学芸部副部長だった井上靖のもとで記者としての訓練を受ける。勤務のかたわら、小説を書き始め、1957年、生家の昆布屋をモデルにした親子二代の商人を主人公とした「暖簾」を刊行して作家デビュー。
翌年、吉本興業を創業した吉本せいをモデルとした「花のれん」により第39回直木賞を受賞。新聞社を退社して作家活動に入る。1963年より連載を始めた、大阪大学医学部をモデルに大学病院の現実を描いた「白い巨塔」は鋭い社会性で話題を呼んだ。神戸銀行(現在の三井住友銀行)をモデルとして経済界を描いた「華麗なる一族」(1973年)、「不毛地帯」(1976~78年)、「二つの祖国」(1983年)、「大地の子」(1991年)の戦争三部作と骨太の大作を連続して世に送り出した。その後、日本航空社内の腐敗や、航空機事故史上でも悲惨な大事故(御巣鷹山墜落事故)を扱った大作「沈まぬ太陽」を発表。1991年、菊池寛賞を受賞。
山崎の主要作品の大半が映画化およびテレビドラマ化されている。上記以外の著作に「ぼんち」(1956年)、「運命の人」(1959年)、「しぶちん」(1959年)、「女の勲章」(1961年)、「女系家族」(1963年)、「花紋」(1964年)、「仮装集団」(1967年)など多数。
兵庫県
・石原慎太郎(1932~)
作家・政治家。兵庫県神戸市須磨区生まれ。一橋大学法学部卒。大学在学中の1956年に文壇デビュー作「太陽の季節」で第34回芥川賞を受賞。“太陽族”という言葉が生まれるきっかけとなった。同作品の映画化では、弟・裕次郎をデビューさせた。
「化石の森」(1970年)で芸術選奨文部大臣賞、「生還」(1988年)で平林たい子文学賞、弟・裕次郎を題材にした「弟」(1996年)で毎日出版文化賞特別賞などを受賞。このほか、盛田昭夫との共著「『NO』といえる日本-新日米関係の方策」(1989年)はじめ、「スパルタ教育」(1969年)、「法華経を生きる」(1998年)、「老いてこそ人生」(2002年)、「亀裂」、「完全な遊戯」、「光より速きわれら」など多数。
1968年、参議院選挙に全国区から出馬し初当選。1972年に衆議院に鞍替えし出馬し当選。1975年、現職の美濃部亮吉に挑戦、東京都知事選に自民党推薦で出馬し落選。1989年、自民党総裁選に立候補し、海部俊樹に敗れた。1999年、都知事選に出馬し当選、2011年で4選。
・佐藤雅美(1941~)
作家。兵庫県生まれ。早稲田大学法学部卒。会社勤務を経て、1968年よりフリーに。1984年、処女作「大君の通貨」で第4回新田次郎文学賞受賞。1994年「恵比寿屋喜兵衛手控え」で第110回直木賞受賞。
緻密な時代考証による社会制度や風俗を正確に描写し、とくに江戸時代の町奉行や岡っ引きなどの司法、警察制度のほか、医学・医療学問に詳しく、これらの題材を様々に織り交ぜた多彩な作品を発表している。デビュー初期は、幕府や諸藩の歴史的な題材を、財政・経済面から考証した歴史経済分野の作品に、特徴と斬新さがあった。
主な著書に「主殿の税 田沼意次の経済改革」(1988年)、「幕末『住友』参謀 広瀬宰平の経営戦略」(1987年)、「薩摩藩経済官僚 回天資金を作った幕末テクノクラート」(1986年)、「江戸の税と通貨 徳川幕府を支えた経済官僚」(1989年)、「官僚 川路聖謨の生涯」(1997年)、「影帳 半次郎捕物控」シリーズ、「八州廻り桑山十兵衛」シリーズ、「縮尻鏡三郎」シリーズ、「開国 愚直の宰相・堀田正睦」(1995年)、「覚悟の人 小栗上野介忠順伝」(2007年)などがある。
・宮本輝(1947~)
作家。本名は宮本正仁。兵庫県神戸市生まれ。のち愛媛県、大阪府、富山県に転居。追手門学院大学文学部卒。サンケイ広告社でコピーライターとして働いたが、20代半ばごろから、現代でいう「パニック症候群」に苦しんだ経験を持つ。知人を通じて作家・編集者で「宮本輝」の名付け親でもある池上義一に出会い、作家としての指導を受けた。
1977年「泥の河」で第13回太宰治賞を、1978年「蛍川」で第78回芥川賞を受賞し、作家としての地位を確立した。1987年「優駿」で第21回吉川英治文学賞を受賞。同時に1987年、初代JRA賞、馬事文化賞を受賞した。2009年には「骸骨ビルの庭」で第12回司馬遼太郎賞を受賞。2004年に芸術選奨、2010年に紫綬褒章を受章。
主な作品に「彗星物語」(1992年)、「海辺の扉」(1991年)、「朝の歓び」(1994年)、「雨の降る午後」(1988年)、「避暑地の猫」(1985年)、「ここに地終わり ここに海始まる」(1991年)、「睡蓮の長いまどろみ」(2000年)、「海岸列車」(1989年)、「草原の椅子」(1999年)、「道頓堀川」(1981年)、「錦繍」(1982年)、「青が散る」(1982年)、「流転の海」(1984年)、「ドナウの旅人」(1985年)、「愉楽の園」(1989年)、「オレンジの壺」(1993年)、「焚き火の終わり」(1997年)、「月光の東」(1998年)、「夢見通りの人々」(1986年)、「私たちがすきだったこと」(1995年)、「血脈の火」(1996年)、「ひとたびはポプラに臥す」(1997年)、「葡萄と郷愁」(1986年)、対談集に「道行く人たちと」(1984年)、「メイン・テーマ」(1986年)などがある。
和歌山県
・神坂次郎(1929~)
作家。本名は中西久夫。和歌山市出身。1943年、陸軍航空学校に入校し、鹿児島知覧特攻基地を経て、航空通信隊員として愛知県小牧飛行基地で任務時に終戦を迎えた。終戦に際し、日本陸軍の暗号などの重要書類を処分する役目を担った。後に、書類を燃やしながら、涙がとめどなく流れたと回想している。
戦後、演劇関係の仕事に就き、長谷川伸と知り合い、時代小説を書き始めた。
1982年「黒潮の岸辺」で第2回日本文芸大賞、1987年「縛られた巨人-南方熊楠の生涯」で第1回大衆文学研究賞を受賞。
1992年の皇太子徳仁親王の熊野行啓に際し、自著「熊野御幸」を2時間半にわたって進講。自らの特攻隊員としての体験や、地元和歌山の偉人を取り上げた作品を執筆し、高い評価を得ている。
主な著書に「元禄御畳奉行の日記」(1984年)、「男いっぴき物語 南海色豪伝」(1976年)、「今日われ生きてあり」(1985年)、「今昔おかね物語」(1990年)、「天馬空をゆく」(1976年)、「天鼓鳴りやまず 北畠道竜の生涯」(1989年)、「竜馬と伊呂波丸」(1996年)、「サムライたちの小遣帳」(1996年)、「幕末を駆ける」(1985年)、「花咲ける武士道」(1983年)、「徳川家康 物語と史蹟をたずねて」(1976年)、「おれは豪傑」(1968年)、「男 この言葉」などがある。
・津本陽(1929~)
作家。本名は寅吉(とらよし)。和歌山市出身。東北大学法学部卒。同人誌「VIKING」に発表した「深重の海」で78年に直木賞を受賞。題材は主に織田信長、前田利家、徳川吉宗、竹中半兵衛、塚原朴伝、紀伊國屋文左衛門、銭屋五兵衛、岩橋万造、ジョン万次郎、親鸞、顕如上人、陸奥陽之助(陸奥宗光)、南方熊楠ら戦国大名や剣豪、幕末の英傑を主題にした歴史小説が多い。1997年、紫綬褒章、2005年に第53回菊池寛賞を受賞。
「明治撃剣会」(1982年)、「薩南示現流」(1983年)で剣豪小説の新境地を開拓、新剣豪小説の担い手となる。「黄金の海へ」(1989年)、「春風無刀流」(1987年)、「波上の館」(1994年)、「海商 岩橋万造の生涯」(1984年)、「火焔浄土 顕如上人伝」(1991年)、「下天は夢か」(1991年)、「創神 織田信長」(1992年)、「乱世 夢幻の如し」(1992年)、「乾坤の夢」(1997年)、「修羅街道」(1987年)、「気骨の人」(1990年)、「巨人伝」(1989年)、「開国」(1993年)、「椿と花水木 ジョン万次郎の生涯」(1994年)、「大わらんじの男 八代将軍徳川吉宗」(1995年)、「大谷光瑞の生涯」(1996年)、「無量の光 親鸞聖人の生涯」(2009年)、「荒ぶる波濤 幕末の快男児 陸奥陽之助」(2010年)など長編も多数。
岡山県
・柴田錬三郎(1917~1978年)
作家。岡山県邑久郡鶴山村(現在の岡山県備前市)の地主、柴田知太の三男として生まれた。1940年、齋藤エイ子と結婚、齋藤家の婿養子となり、以後、齋藤錬三郎と名乗った。本姓は斎藤。慶応大学文学部支那文学科卒。在学中、「三田文学」に処女作「十円紙幣」を発表。
戦後、編集者生活を経て、1949年、佐藤春夫に師事して文筆活動に入り、1951年「イエスの裔(すえ)」で第26回直木賞を受賞。同年の「真説 河内山宗俊」発表以後は時代小説を次々と発表した。1956年から創刊されたばかりの「週刊新潮」に連載された「眠狂四郎」シリーズでは、戦後を代表するニヒル剣士の眠狂四郎を登場させた。同作品では読み切りという斬新な手法を取ったことと通俗的な要素を織り込み、剣豪小説の一大ブームを巻き起こした。その結果、通称“シバレン(柴錬)”の剣豪作家のイメージが定着した。1969年には「三国志英雄ここにあり」で第4回吉川英治文学賞を受賞した。
代表作に「眠狂四郎無頼控」「赤い影法師」「曲者時代」「徳川三国志」など多数。
1988年、柴田錬三郎の業績を称えて「柴田錬三郎賞」(集英社主催)が設けられ、年1回発表されている。
・薄田泣菫(1877~1945年)
詩人、随筆家。本名は淳介(じゅんすけ)。岡山県浅口郡大江連島村(現在の岡山県倉敷市連島町)生まれ。岡山尋常中学(現在の岡山一中)中退後、上京し働きながら、上野図書館に通い独学。キーツの詩集を愛読した。1897年(明治30年)、「新著月刊」に投稿した詩が後藤宙外(ちゅうがい)に認められ、詩壇に登場。
1899年、第一詩集「暮笛集(ぼてきしゅう)」を刊行。わが国最初のソネット(十四行詩)形式の詩を試み、若い世代に大いに迎えられた。その後、大阪に移り、文芸雑誌「小天地」の編集に携わった。1901年「ゆく春」、1905年「二十五絃(げん)」という詩集を刊行。与謝野鉄幹や上田敏らに称賛され、これらを含む第四詩集「白羊宮」(1906年)は、浪漫派高踏詩人としての声価を決定付けた。
その結果、島崎藤村、土井晩翠以後の詩壇を担う存在として、象徴派の蒲原有明と並び称された。だが、その後、長編叙事詩「葛城(かつらぎ)の神」(1906年)の発表を最後に、彼はなぜか詩作を断った。
1912年(大正1年)、大阪毎日新聞社に入社。1915年より同紙に連載で始めた「茶話(ちゃばなし)」が軽妙自在な話術が好評を博し、以後、彼は随筆家として活躍した。
代表的詩集は「ゆく春」「二十五絃」「白羊宮」「暮笛(ぼてき)集」など。
広島県
・阿川弘之(1920~)
作家。東京帝国大学国文科卒。文化功労者。1942年(昭和17年)、海軍予備学生として海軍に入隊。軍令部勤務の経験を持ち、1944年、支那方面艦隊司令部付の辞令を受け、中国で終戦を迎えた。1946年に海軍大尉として復員後、志賀直哉に師事。志賀直哉最後の内弟子として薫陶を受け、その文学上の後継者との見方もある。
主要作品は戦記・記録文学だが、時代に媚びることのない、正確で淡い情感を呈する文体や表現に定評があり、しばしば国語教育の教材に取り上げられた。第三の新人といわれた作家グループの遠藤周作や吉行淳之介、また紀行文などで知られる開高健らとは親友だった。その他、北杜夫、三浦朱門らとも交友があった。
「春の城」(1952年)で第4回読売文学賞、1967年「山本五十六」で第13回新潮社文学賞、1987年「井上茂美」で第19回日本文学大賞、「志賀直哉」(1994年)で毎日出版文化賞と野間文芸賞、1999年文化勲章、2001年「食味風々録」で第53回読売文学賞、2007年、第55回菊池寛賞をそれぞれ受賞している。
代表作に「山本五十六」「米内光政」「井上茂美」の海軍提督を描いた3部作はじめ「軍艦長門の生涯」「春の城」「雲の墓標」「暗い波濤」などがある。
・井伏鱒二(1898~1993年)
作家。広島県深安郡で生まれる。本名は満寿二(いぶしますじ)。ペンネームはつり好きだったことによる。井伏家は室町時代の1442年(嘉吉2年)まで遡れる旧家で「中ノ士居」の屋号を持つ代々の地主。1919年、早稲田大学文学部仏文科一年のとき「ありじごく」「幽閉」などを書いたのが文筆業のスタート。ただ、3年のとき担当の教授と衝突し休学。半年後、復学申請したが、同教授に反対され、やむなく中退した。
1924年、佐藤春夫に師事。1929年「山椒魚」「屋根の上のサワン」を発表。
1938年「風来漂流民奇譚ジョン萬次郎漂流記」およびユーモア小説により第6回直木賞受賞。以後、「さざなみ軍記」(1938年)、「遥拝隊長」、1950年「本日休診」(第1回読売文学賞受賞)、1966年、第26回文化勲章受章、「黒い雨」で第19回野間文芸賞受賞、1972年「早稲田の森」で読売文学賞受賞。
井伏作品は数多く映画化されている。1937年「集金旅行」(中村登監督)、1939年「多甚古村」(今井正監督)、1941年「おこまさん」(成瀬巳喜男)、1948年「貸間あり」(川島雄三監督)、1950年「本日休診」(渋谷実監督)、1957年「駅前旅館」(豊田四郎監督)、1959年「珍品堂主人」(豊田四郎監督)、1966年「黒い雨」(今村昌平監督)。
山口県
・種田山頭火(1882~1940年)
俳人。現在の防府市生まれ。近在屈指の大地主の長男として生まれるが、9歳のとき母親が自殺。以後、徐々に家は没落。1902年、早稲田大学・大学部文学科に第一回生として入学するが、1904年、神経衰弱で退学。1911年(明治44年)、荻原井泉水の主宰する自由律俳誌「層雲」に寄稿。1913年(大正2年)、井泉水門下となった。1916年(大正5年)、「層雲」の選者に参加。このころ家運とともに、やがて不幸の淵に沈んでいく。弟と父が自殺。自らも自殺未遂を起こし、報恩禅寺の住職に助けられ、1925年、出家得度、耕畝と改名。雲水姿で26年から流転の旅に出て、九州から東北まで漂泊托鉢。行乞生活を記録した句は、数奇な生涯を凝縮し秀逸。旅先から「層雲」へ投稿を続けた。
自由律俳句の最も著名な俳人の一人。山頭火は同じ井泉水門下の尾崎放哉と並び称され、ともに酒癖によって身を持ち崩し、師の井泉水や支持者の援助によって生計を立てていたところは似ている。ただ、その作風は対照的で、「静」の放哉に対し、山頭火の句は「動」だ。
主な著作は「鉢の子」「草木塔」「山行水行」。代表句は「酔うてこほろぎと寝ていたよ」「霧島は霧にかくれて赤とんぼ」「まっすぐな道でさびしい」「分け入っても分け入っても青い山」「おちついて死ねそうな草萌ゆる」「生死の中の雪ふりしきる」など。
・中原中也(1907~1937年)
詩人、歌人、翻訳家。山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村(現在の山口市湯田温泉)で生まれた。旧姓は柏村。東京外国語学校(現在の東京外国語大学)専修科仏語部卒。父・謙助は当時陸軍軍医だったため、幼少時は父の転任に従って転居を繰り返した。1915年(大正4年)、中原家との養子縁組を届け出て一家は中原姓となった。
1920年(大正9年)、雑誌「婦人画報」「防長新聞」に投稿し、短歌が入選。1922年(大正11年)2人の友人とともに歌集「末黒野」を刊行。1923年(大正12年)、高橋新吉「ダダイスト新吉の詩」に出会い、ダダイズムに傾倒。1925年(大正14年)、小林秀雄と出会う。1928年(昭和3年)、音楽団体「スルヤ」第2回発表会で、諸井三郎が中也の詩に曲を付けた「朝の歌」「臨終」が歌われた。1929年(昭和4年)、河上徹太郎、大岡昇平らとともに同人誌「白痴群」を創刊。翌年終刊するまで6号を刊行した。
中也は、叙情的で透明な独自の詩境を開いた。30歳で亡くなったが、350篇以上もの詩を残し、一部は彼自身が編纂した詩集「山羊の歌」(1934年)、「在りし日の歌」(1938年)に収録されている。訳詩では「ランボオ詩集」(1933年)を出すなどフランス人作家の翻訳もしている。代表的詩集は「山羊の歌」「在りし日の歌」など。
【記念館】中原中也記念館(山口市湯田温泉1-11-21)
徳島県
・瀬戸内寂聴(1922~)
作家・評論家。天台宗の尼僧、僧位は僧正まで務めた。徳島市塀裏町の仏壇店(瀬戸内商店)を営む三谷家の次女として生まれ、後に父が従祖母の家、瀬戸内家の養子となり、女学校時代に晴美も瀬戸内に改姓した。東京女子大国語専攻科卒。瀬戸内晴美の筆名で幅広い創作活動。1973年、岩手県・平泉町の中尊寺で得度し法名・寂聴。京都・嵯峨野に寂庵を結ぶ。1987年、岩手・天台寺住職に。1997年、文化功労賞、2006年、文化勲章を受章。
1957年「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞、1961年「田村俊子」で田村俊子賞、1963年「夏の終り」で女流文学賞、僧籍に入ってからも1992年「花に問え」で谷崎潤一郎賞、1995年芸術選奨文部大臣賞、2001年「場所」で野間文芸賞、2008年には第3回「安吾賞」をそれぞれ受賞。
敦賀女子短期大学学長(1988~92年)を務めたほか、2006年には「源氏物語千年紀」の呼びかけ人となるなど教育・文化活動などにも名を連ねている
既述の作品以外の主な著書に「女優」(1964年)、「妻たち」(1965年)「かの子繚乱」(1965年)、「輪舞」(1965年)、「美は乱調にあり」(1966年)、「煩悩夢幻」(1966年)、「祇園女御」(1968年)、「お蝶夫人 三浦環」(1969年)、「ゆきてかえらぬ」(1971年)、「京まんだら」(1972年)、「中世炎上」(1973年)、「まどう」(1978年)、「比叡」(1979年)、「伝教大師巡礼」(1981年)、「ここ過ぎて 北原白秋と三人の妻」(1984年)、「とわずがたり 現代語訳 後深草院二条」(1988年)、「女人源氏物語」全5巻(1988~89年)、「つれなかりせばなかなかに 妻をめぐる文豪の詩人の恋の葛藤」(1997年)などがある。
愛媛県
・大江健三郎(1935~)
小説家。愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)出身。東大文学部仏文科卒。在学中に執筆した「奇妙な仕事」で注目を集め、1957年「死者の奢り」で文壇レビュー。翌年「飼育」で、当時最年少の23歳で芥川賞受賞。サルトルの実存主義の影響を受けた作家として登場し、戦後日本の閉塞感と恐怖をグロテスクな性のイメージを用いて描き石原慎太郎、開高健らとともに新世代の旗手的存在となった。
その後、豊富な外国文学の読書経験から独特の散文詩的な文体を獲得し、核や国家主義などの人類的な問題と、故郷・四国の森や知的障害者、愛息(長男で作曲家の大江光)との交流といった自身の「個人的な体験」、さらに自身の豊富な読書から様々にインスパイアされた事柄・思想を換骨奪胎して織り込み、それらを多重的に輻輳させた独特の世界観をつくりあげた。
「個人的な体験」(1964年、新潮社文学賞)、「万延元年のフットボール」(1967年、谷崎潤一郎賞)、「洪水はわが魂に及び」(1973年、野間文芸賞)、「同時代ゲーム」(1979年)、「雨の木(レインツリー)を聴く女たち」(1983年、読売文学賞)、「新しい人よ眼ざめよ」(1983年、大佛次郎賞)、「河馬に噛まれる」(1984年、川端康成文学賞)、「人生の親戚」(1990年、伊藤整文学賞)などで、絶えず現代文学の可能性を切り開き、その成果は国際的にも高く評価され、94年ノーベル文学賞受賞。2005年、作家生活50周年を記念して、2006年「大江健三郎賞」が創設された。
既述以外の主な作品に「死者の奢り」(1957年)、「見るまえに跳べ」(1958年)、「われらの時代」(1959年)、「孤独な青年の休暇」(1960年)、「青年の汚名」(1960年)、「セヴンティーン」(1961年)、「遅れてきた青年」(1962年)、「性的人間」(1963年)、「日常生活の冒険」(1964年)、「取り替え子(チェンジリング)」(2000年)、評論・随筆で「ヒロシマ・ノート」(1965年)、「沖縄ノート」(1970年)などがある。
福岡県
・五木寛之(1932~)
作家。福岡県八女市生まれ。旧姓は松延(まつのぶ)。早稲田大学第一文学部露文学科中退後、文筆家(小説家・放送作家)、作詞家など様々な職業で幅広く活動。1965年結婚。夫人の親戚の五木家に跡継ぎがなかったためか、これ以後、五木姓を名乗った。その後、かねてから希望していたソ連、北欧を単身、旅行。帰国後、1966年「さらばモスクワ愚連隊」を発表、第6回小説現代新人賞を受賞、作家としてのスタートを切った。
1967年、「蒼ざめた馬を見よ」で第56回直木賞を受賞。1976年、「青春の門・筑豊編」で第10回吉川英治文学賞受賞。81年より休筆、京都・龍谷大学で仏教を学び、1985年から執筆を再開した。第一エッセイ集「風に吹かれて」は刊行から30余年を経て450万部以上に達するロングセラーとなっている。
2002年に菊池寛賞受賞、同年「TARIKI」で「ブック・オブ・ザ・イヤー スピリチュアル部門」受賞。2004年、仏教伝道文化賞、2009年、NHK放送文化賞、2010年、「親鸞」で第64回毎日出版文化賞特別賞を受賞。
既述の作品以外の主な著書に、「海を見ていたジョニー」(1967年)、「青年は荒野をめざす」(1967年)、「男だけの世界」(1968年)、「恋歌」(1968年)、「ソフィアの秋」(1969年)、「内灘夫人」(1969年)、「朱鷺の墓」(1969~72年)、「青春の門・自立編」(1971~72年)、「青春の門・放浪編」(1973~74年)、「青春の門・堕落編」(1976~77年)、「青春の門・再起編」(1980年)、「青春の門・挑戦編」(1993年)、「戒厳令の夜」(1976年)、「海峡物語」(1977年)、「燃える秋」(1978年)、「水中花」(1979年)、「四季・奈津子」(1979年)、「旅の終りに」(1986年)、「ガウディの夏」(1987年)、「蓮如物語」(1995年)、「親鸞」(2009年)など。
エッセイに「ゴキブリの歌」(1971年)、「地図のない旅」(1972年)、「重箱の隅」(1979年)、「日本幻論」(1993年)、「生きるヒント1~5」(1993~97年)、「他力」(1998年)、「蓮如 聖俗具有の人間像」(1994年)、「蓮如 われ深き淵より」(1995年)、「大河の一滴」ほか、訳書に「かもめのジョナサン」などがある。
・小島直記(1919~2008年)
作家。福岡県八女郡福島町(現在の福岡県八女市福島)生まれ。東京帝国大学経済学部卒。海軍主計大尉で終戦。戦後、ブリヂストンに入社。仕事のかたわら、執筆活動に取り組んだ。1956年「人間勘定」で第34回芥川賞候補。
1966年、ブリヂストンを退社し、ペン一本となった。1967年に「週刊現代」に連載した「小説 三井物産」は1981年に講談社文庫で企業情報小説シリーズとして刊行され、上下巻で20万部を売り上げるヒットとなった。
また、1975年の「選択」創刊号から連載したコラム「古典からのめっせいじ」が人気となり、後に「出世を急がぬ男たち」「逆境を愛する男たち」「回り道を選んだ男たち」「老いに挫けぬ男たち」など“男たち”シリーズとして単行本化され、評判を呼んだ。
これらの著作に代表されるように、小島は明治以降の政財界人を取り上げた評伝文学に、新たな地平を切り開いた。松永安左衛門の生涯を描いた「まかり通る」(1973年)、益田孝を描いた「三井物産初代社長」(1981年)、ヤンマーディーゼル創業者を描いた「エンジン一代 山岡孫吉伝」(1980年)、ブリヂストンタイヤの創業者を描いた「創業者 石橋正二郎」(1986年)、「野村王国を築いた男 奥村綱男のトコトン人生」(1982年)、「福沢諭吉」(1981年)など数多くの作品を発表している。
既述の作品以外の主な著書に「人材水脈 日本近代化の主役と裏方」(1969年)、「東京海上ロンドン支店」(1980年)、「日本策士伝 資本主義をつくった男たち」(1989年)、「福沢山脈」(1967年)「志に生きた先師たち」(1985年)、「無冠の男」(1975年)、「スキな人 キライな奴」(1991年)など多数。
【記念館】小島伝記文学館(静岡県長泉町)
・松本清張(1909~1992年)
小説家。「せいちょう」はペンネームで、本名は「きよはる」と読む。公式には福岡県企救郡板櫃村(現在の福岡県北九州市小倉北区)出身。しかし、実際には広島市で生まれ、幼児期から児童期は山口県下関市で育ち、現在の小倉北区に定住したのは10、11歳のころからともいわれている。実父が定職を持たず生家が貧しかったため、1924年板櫃尋常高等小学校を卒業した後、様々な職業に就いた。朝日新聞社の正式社員となったが、召集され、朝鮮で終戦。帰国後、朝日新聞社に復帰。
1953年「或る『小倉日記』伝」で第28回芥川賞を受賞。1956年、朝日新聞社を退社、作家活動に専念する。1955年から「張込み」「顔」など推理小説を書き始め1957年「顔」が第10回日本探偵作家クラブ賞を受賞同年から雑誌「旅」に「点と線」を連載。翌年刊行され、「眼の壁」とともにベストセラーとなった。犯罪の動機を重視する作風の推理小説が特徴。
時代小説、政治小説、ノンフィクションの幅広い分野でも多くの話題作を発表した。また、古代史、現代史の分野でも、独自の視点で大胆な仮説を打ち出すなど幅広く活躍した。とくに「古代史疑」などで古代史に強い関心を示し、「清張通史」ほか、「火の路」(1975年)などの小説にも結実した。緻密で深い研究に基づく自説の発表は、古代史学術・学会関係者からも小説家の水準を超えるものと評された。「日本の黒い霧」「昭和史発掘」などのノンフィクションをはじめ、近代史、現代史に取り組んだ諸作品をも精力的に著したほか、森鴎外や菊池寛に関する評伝を残すなど、極めて広い領域にまたがる創作活動を続けたことで知られている。
主な著書に「点と線」「ゼロの焦点」「砂の器」「わるいやつら」「球形の荒野」「けものみち」「Dの複合」「日本の黒い霧」「黄色い風土」「ガラスの城」「風紋」「黒い樹海」「落差」「棲息分布」「殺人行おくのほそ道」「湖底の光芒」「邪馬台国 清張通史①」「空白の世紀 清張通史②」「カミと青銅の迷路 清張通史③」「天皇と豪族 清張通史④」「壬申の乱 清張通史⑤」「古代の終焉 清張通史⑥」など多数。
【記念館】北九州市立松本清張記念館(北九州市小倉北区城内2番3号)
佐賀県
・北方謙三(1947~)
作家。佐賀県唐津市生まれ。小学校5年のとき、神奈川県川崎市に転居。中央大学法学部法律学科卒。在学中の1971年に「明るい街へ」でデビュー。大学卒業後は、PR誌の企画スタッフをしながら執筆を続けた。1981年の「弔鐘はるかなり」(「第二誕生日」改題)で脚光を浴びた。新人としては異例の“書き下ろし長編”による処女出版であり、二度目のデビューだった。翌年「逃れの街(「ふたりだけの冬」改題)」も出版。その後「眠りなき夜」「さらば、荒野」「檻」とヒット作を次々と生み出し、“ハードボイルド小説の旗手”として一躍人気作家となった。
それを裏付けるように1982年「眠りなき夜」で第1回日本冒険小説協会大賞、吉川英治文学新人賞受賞。1983年に「檻」で第2回日本冒険小説協会大賞、1984年「渇きの街」で第38回日本推理作家協会賞を受賞。1984年「過去利メンバー」で第11回角川小説賞、1985年「明日なき街角」で第5回日本文芸大賞をそれぞれ受賞。
また、1983年には「逃れの街が水谷豊主演、工藤栄一監督で映画化。以降、「友よ、静かに瞑れ」(1985年)、「黒いドレスの女」(1987年)など次々と映画化され、作家としての地位を築き上げた。
1988年から歴史小説にも挑み、1989年に初の歴史小説として南北朝時代を舞台とし、懐良親王を主人公とした「武王の門」を発表。続いて発表した1991年の、北畠顕家を主人公とした「破軍の星」で柴田錬三郎賞受賞。1996年に全13巻の大長編、北方版「三国志」の刊行が開始され、以降、歴史小説は中国史へとすそ野を広げた。1999年には「水滸伝」が小説すばるで連載開始され、全19巻の超大作は日本の大衆小説の最高峰とも称された。同作品は2006年、第9回司馬遼太郎賞を受賞。2007年「独り群せず」で第1回舟橋聖一文学賞受賞、2009年には第13回日本ミステリー文学大賞を受賞している。
主な作品にハードボイルド小説シリーズで「ブラディ・ドール」、「約束の街」「谷道雄」「挑戦」「老犬」「美有」「野崎」「神尾」「望月」などシリーズがある。歴史小説で「絶海にあらず」「道誉なり」「陽炎の旗」「林蔵の貌」「波王の秋」「悪党の裔」「草莽枯れ行く」、剣豪小説で「日向景一郎」シリーズなどがある。
長崎県
・村上龍(1952~)
作家。本名は村上龍之助。長崎県佐世保市出身。武蔵野美術大学在学中、1976年、麻薬とセックスに溺れる自堕落な若者たちを描いた「限りなく透明に近いブルー」で第19回群像新人文学賞および、第75回芥川賞を受賞、衝撃的なデビューを飾った。そのため、ヒッピー文化の影響を強く受けた作家として、村上春樹とともに時代を代表する作家と目された。
芥川賞選考会では評価が真っ二つに分かれた。文壇でも奥野健男が高く評価する一方、江藤淳が批判するなど大きな論議を呼んだ。
村上は大学を中退した後、本格的な作家活動に入った。1980年、コインロッカーに遺棄された孤児の破壊衝動を描いた「コインロッカー・ベイビーズ」で野間文芸新人賞受賞。以後、自伝的作品「69 sixty nine」(1987年)、日本を弱肉強食型に変革しようともくろむ秘密結社の「狩猟社」の闘いを描いた「愛と幻想のファシズム」(1987年)、SM嬢を過激な性表現で描いた連作「トパーズ」(1988年)などを発表。こうした小説執筆のかたわら、自作の映画化に取り組むなどの活動を行った。
パラレル・ワールドの日本を描いた「五分後の世界」(1994年)などを経て、1996年「69」の続編「村上龍映画小説集」で平林たい子文学賞受賞。同年、女子高生の援助交際を描いた「ラブ&ポップ」を発表。1998年、サイコホラー風の作品「イン ザ・ミソスープ」で読売文学賞受賞。2000年、引きこもりの青年が戦争に魅了されていくさまを描いた「共生虫」を発表。第36回谷崎潤一郎賞受賞。2005年には日本への北朝鮮侵攻を描いた「半島を出よ」を発表。第58回野間文芸賞受賞、第59回毎日出版文化賞を受賞。また「トパーズ」「KYOKO」などで映画監督。
「ラッフルズホテル」「エクスタシー」「メランコリア」「昭和の歌謡大全集」「オーディション」「ストレンジ・デイズ」「ライン」「最後の家族」「ワイン一杯だけの真実」「歌うクジラ」など著書多数。
宮崎県
・若山牧水(1885~1928年)
歌人。本名は繁(しげる)。宮崎県東臼杵郡東郷村(現在の宮崎県日向市)の医師、若山立蔵の長男として生まれた。中学時代に短歌と俳句をはじめ、18歳のとき、号を「牧水」とした。1904年(明治37年)、早稲田大学文学科に入学。同級生の北原射水(後の白秋)、中村蘇水、と親交を厚くし、「早稲田の三水」と呼ばれたという。
1908年(明治41年)、早稲田大学英文科卒業。処女歌集「海の声」を出版。1909年(明治42年)、中央新聞社に入社したが、5カ月後に退社した。1911年(明治44年)、創作社を興し、詩歌雑誌「創作」を主宰。1912年(明治45年)、友人だった石川啄木の臨終に立ち会った。
沼津の自然、とくに千本松原の景観に魅せられて1920年(大正9年)、一家をあげて沼津に移住した。
尾上柴舟(さいしゅう)の門下。平易純情な浪漫的作風で旅と酒の歌が多い。旅を愛し、旅にあって各所で歌を詠み、日本各地に歌碑がある。大の酒好きで一日一升程度の酒を呑んでいたといわれる。死因は肝硬変。夏の暑い盛りに死亡したにもかかわらず、死後しばらく経っても死体から腐臭がしなかったため「生きたまま、アルコール漬けになったのでは…」と医師を驚嘆させたとの逸話が残っている。
出身地・宮崎県では若山牧水の功績を称え、1996年(平成8年)から毎年、短歌文学の分野で傑出した業績を挙げた者に「若山牧水賞」を授与している。
歌集に「海の声」「独り歌へる」「別離」「路上」「秋風の歌」「砂丘」「朝の歌」「白梅集」「山桜の歌」、紀行文に「みなかみ紀行」「木枯紀行」などがある。
【記念館】沼津市若山牧水記念館(静岡県沼津市千本郷林1907-11)
熊本県
・徳冨蘆花(1868~1927年)
小説家。本名は健次郎。思想家、ジャーナリストの徳冨蘇峰(猪一郎)の弟。蘆花という号の由来について、蘆の花は見どころがない-と清少納言が書いているが、その見どころがないところを、かえって私は愛している-と述べている。同志社英学校中退。
横井小楠門下の俊英だった父・徳冨一敬の次男として肥後国(現在の熊本県)に生まれた。同志社英学校に学び、キリスト教の影響を受けトルストイに心酔して、社会的視野を持つ作品を書いた。後年、夫人とともに外遊した際、トルストイの住む村を訪れ、トルストイと会見した。そのときの記録「順礼紀行」はオスマン帝国治下のエルサレム訪問記も含めて貴重な記録となっている。
兄の下での下積みの後、自然詩人として出発し、小説「不如帰(ほととぎす)」はベストセラーとなった。また、エッセイ「自然と人生」はその文章が賞賛され、その結果、文壇に独自の地位を占め、一気に人気作家になった。しかし、国家主義的傾向を強めていった兄の蘇峰とは次第に不仲となり、1903年に蘇峰への「告別の辞」を発表し、絶縁状態となった。晩年はキリスト者として田園生活を送った。
主な著作は「思い出の記」「黒い眼と茶色の目」「みみずのたはこと」「黒潮」「寄生木(やどりぎ)」など。
【記念館】徳冨蘆花記念文学館(群馬県渋川市伊香保町伊香保614番地8)
鹿児島県
・海音寺潮五郎(1901~1977年)
作家。本名は末富東作(すえとみとうさく)。鹿児島県伊佐郡大口村(現在の鹿児島県伊佐市)生まれ。国学院大学卒業後、指宿や京都で中学校教師を務めるかたわら創作活動に励んだ。1933年「風雲」が「サンデー毎日」大衆文芸賞を受賞したのを機に、執筆活動に入った。歴史小説を数多く発表。国学院大学教授で戦国史の大家だった桑田忠親との交友も深かったことが、独自の史観形成に寄与したと思われる。
1936年「天正女合戦」「武道伝来記」などの作品で第3回直木賞を受賞し、文名を不動のものとした。1968年に第16回菊池寛賞受賞、そして紫綬褒章を受章している。1973年に第24回NHK放送文化賞受賞、文化功労者に選出された。1977年に第33回日本芸術院賞文芸武門受賞。
1955~57年に発表した平将門を描いた「風と雲と虹と」、1962年に発表した上杉謙信を描いた「天と地と」はそれぞれNHK大河ドラマの原作の原作として使われた。鎌倉時代から戦国時代、安土桃山・江戸時代、幕末・明治維新の動乱時代と主に武家政権社会における様々な事件・事績および人物を描いた小説・評伝、エッセイに特徴がある。和漢の書にあまねく通じ、緻密な時代考証のうえに独自の史観を展開し、小説、随筆に新たな領域を開き、多くの著作を残した。
既述の作品以外の代表作に「西郷と大久保」「江戸開城」「乱世の英雄」「武将列伝」「二本の銀杏」「悪人列伝」「幕末動乱の男たち」「蒙古来たる」「赤穂浪士伝」「寺田屋騒動」「史伝 西郷隆盛」「伊達政宗」「新太閤記」「田原坂 小説 西南戦争」「覇者の條件」「日本名城伝」などがある。
【記念館】海音寺潮五郎記念館(東京都世田谷区経堂2-12-9)
<国外で出生>
・早乙女貢(1926~2008年)
作家。本名は鐘ヶ江秀吉。中国・ハルピン生まれ。慶応義塾大学文学部中退。1946年、九州に引き揚げた。早くから倶楽部雑誌の書き手として活躍し、多くの作品を発表。1968年、「小説会議」に掲載した「野鶏路」に手を加えたマリア・ルス号事件を扱った「撟人の檻」で第60回直木賞を受賞。その後も「オール読物」「小説新潮」「週刊新潮」「歴史読本」などに作品を発表。忍法かげろう斬りシリーズ、忍者小説、剣豪小説などに特徴があり、司馬遼太郎、池波正太郎と並ぶ時代物御三家とも称された。1989年「会津士魂」で第23回吉川英治文学賞を受賞。
ライフワークともされる「会津士魂」は「歴史読本」で1970年から連載213回、原稿用紙7000枚に及ぶ全13巻の大作。明治維新後の会津藩士を描いた続編の「続 会津士魂」全8巻も2001年に完結した。会津松平家の現当主・松平保久とも親交があると同時に、曽祖父が会津藩士だったことから会津藩への思慕の強い作家として有名。「会津士魂」に代表される幕末作品・考察における視点は、一貫して会津・新選組など幕府側に立っている。
「血槍三代」「北条早雲」「悪霊 松永弾正久秀」「独眼流政宗」「おけい」「沖田総司」「竜馬暗殺」「新撰組斬人剣 小説 土方歳三」「戦国の群像」「幕末愚連隊」「士魂の道」と、戦国・幕末の歴史時代小説が多い。
・白石一郎(1931~2004年)
作家。韓国・釜山生まれ。本籍は壱岐市。早稲田大学政治経済学部卒。大学在学中から懸賞小説に応募を始めた。卒業後は父の経理事務所で働くかたわら、創作活動に励み、1955年「臆病武者」が地方新聞の懸賞の一席入選。作家デビューを果たした。以後、一貫して歴史・時代小説を執筆。v
1987年「海狼伝」で第97回直木賞受賞。ほかにも「海」を舞台にした、あるいは「海」を冠にした作品が少なくない。直木賞には「孤島の騎士」(1970年)、「火炎城」(1974年)、「一炊の夢」「幻島記」(1975年)、「サムライの海」(1980年)、「島原大変」(1982年)、「海賊たちの城」(1984年)と相次いで候補作となったが、いずれも落選。「海狼伝」での受賞は、最初の候補作「孤島の騎士」から17年後、候補に挙がること8回目のことだった。ちなみに、「孤島の騎士」は当時選考委員だった海音寺潮五郎に激賞されたという。
1992年「戦鬼たちの海 織田水軍の将・九鬼嘉隆」で第5回柴田錬三郎賞、98年、海洋文学対象特別賞を受賞。99年「怒涛のごとく」で第33回吉川英治文学賞受賞。既述の作品以外の主な作品に「海王伝」(1990年)、「異人館」(1997年)、「航海者 三浦按針の生涯」(1999年)、「天翔ける女」(1979年)、「海将 若き日の小西行長」(1993年)、「十時半睡事件帖」シリーズ(1982~)、エッセイに「江戸人物伝」(1993年)、「海のサムライたち」(2003年)などがある。
・網淵謙錠(1924~1996年)
作家。樺太・登富津で生まれる。学費が続かず実質5年の休学をはさみ復学し1943年、東大文学部英文科卒業。卒業後、中央公論社に入社し、出版部、「中央公論」「婦人公論」編集部を経て、1959年「谷崎潤一郎全集」(全30巻)、1960年「エリオット全集」(全5巻)を手掛け、さらに子母澤寛の「蝦夷物語」「逃げ水」などの出版に携わった。1970年、築地本願寺で行われた三島由紀夫の葬儀の手伝いが編集者としての最後の仕事だった。1971年退社。
翌1972年、請われて日本ペンクラブ事務局長に就いた。激務のかたわら、「斬」を執筆。1972年、井上ひさしとともに同作品で第67回直木賞を受賞した。
著書に「苔」「狄」「幻」「戊辰落日」「越後太平記」「航」「殺」「剣」「幕末に生きる」「島津斉彬」などがある。見て分かるように、意識的になのか、一字題の作品が数多い。このほかにも「怪」「極」「乱」「濤」「鬼」「刑」「妍」「恋」「狼」「霊」「冥」「兆」「脱」「獄」「怨」「憑」「訟」「幽」「憤」「怯」などがある。
綱淵のジャンル、歴史小説への“のめり込み”は30歳前半に、子母澤寛の「新選組始末記」との出会いにあったといわれ、長谷川伸や海音寺潮五郎の史伝的作品にも関心を寄せた。それらが綱淵の歴史小説のバックグランドとなっている。