郷土ゆかりの文豪②

北海道
・池澤夏樹(1945~)

 小説家、詩人、翻訳家。北海道帯広市出身。埼玉大学理工学部中退。父は作家の福永武彦、母は詩人の原條あき子。1968年、大学中退後、ハヤカワミステリーの短編やテレビ台本、「リーダーズダイジェスト」の記事の翻訳などをした。1972年、結婚した妻が日本航空に勤務していたため、社員割引制度を使い南太平洋を中心に世界各地へ割安で旅をした。1975年、夫婦でギリシアに移住、3年間同地で過ごした。帰国後、初の詩集「塩の道」を出版。1984年「海」に長編小説「夏の朝の成層圏」を発表。2005年、フランスのフォンテヌブローに移住、2009年に北海道札幌市に移住。
1987年に中央公論新人賞を受賞した「スティル・ライフ」で1988年、第98回芥川賞を受賞。1992年「南の島のティオ」で小学館文学賞、1993年「母なる自然のおっぱい」で読売文学賞、同年「マシアス・ギリの失脚」で谷崎潤一郎賞、1994年「楽しい終末」で伊藤整文学賞(評論部門)、2000年「花を運ぶ妹」で毎日出版文化賞、2001年「すばらしい新世界」で芸術選奨文部科学大臣賞、2003年「イラクの小さな橋を渡って」「憲法なんて知らないよ」「静かな大地」などの著作活動で司馬遼太郎賞、同年「言葉の流星群」で宮沢賢治賞を受賞。2004年「世界の文学を読みほどく」「静かな大地」で親鸞賞、2005年「パレオマニア」で桑原武夫学芸賞を受賞、2007年紫綬褒章を受章、2011年、朝日賞を受賞と数多くの受章歴を持つ。
世界各地を旅し、移り住んで体得した感覚をベースにした、文明や日本についての考察を基調にした小説や評論が池澤作品の特徴。既述以外の主な作品に小説で「真昼のプリニウス」「バビロンに行きて歌え」、評論・エッセイで「むくどり通信」「ハワイ紀行」「新世紀へようこそ」などがある。
【記念館】北海道立文学館(北海道札幌市中央区中島公園1-4)

・高橋揆一郎(1928~2007年)

 作家。本名は良雄。北海道歌志内市出身。北海道第一師範学校(現在の北海道教育大学札幌校)中退。住友石炭鉱業に入社、社内報の編集に携わる。1970年に退社し、同人誌「くりま」に加わり、執筆に専念。処女作は北海道新聞文学賞に投稿。1973年「ぽぷらと軍神」で第37回文學界新人賞を受賞してデビュー。1977年、第11回北海道新聞文学賞を受賞した「観音力疾走」などで芥川賞候補になった。そして1978年「伸予」で北海道在住の作家として初めて第79回芥川賞を受賞。このほか自伝的作品「友子」で第11回新田次郎文学賞受賞、1991年には北海道文化賞を受賞。
 高橋は、文壇で知られるようになってからも郷里、北海道に留まって執筆活動を続けた。既述以外の主な作品に「狐沢夢幻」「北の旗雲」「別ればなし」「北の道化師たち」「夏の月」「さざなみ」「晩籟」「地ぶき花ゆら」「舞々虫の賦」「炭火赫く」「雨ごもり」「花筏」「北の絃」「祭り化粧」「五番棟の梅」「えんぴつの花」「悪党のトマト」「縄のれん放談」「にぎにぎ」「陽だまりのムービィ」「夫婦旅せむ」など。
【記念館】北海道立文学館(北海道札幌市中央区中島公園1-4)

・船山 馨(1914~1981年)
 作家。札幌市出身。明治大学商学部中退。1937年、北海道タイムス(後に北海道新聞に統合)の社会部学芸記者となった。その後、上京し1940年、椎名麟三、寒川光太郎、野口富士馬らの「新創作」の同人に」加わり執筆活動。さらに、田宮虎彦らと「青年芸術派集団」を結成し、長編小説「衣裳」や「北国物語」などを発表。1941年、この「北国物語」、1942年「三月堂」が、第13回、14回の2回続けて芥川賞候補となり、文壇でも一目置かれる存在になっていった。
戦後は文芸雑誌「序曲」の同人となり「笛」「半獣神」「魔術師」など実存主義的傾向の強い作品を発表し、椎名麟三・野間宏・埴谷雄高らとともに第一次戦後派の一人と目された。だが1948年、ヒロポン中毒となり、文壇からは一時見放された状態が続いた。それが1967年、地方紙に連載した歴史ロマン「石狩平野」がベストセラーとなり、小説新潮賞を受賞し、文壇の表舞台への復活を果たした。その後も「お登勢」「見知らぬ橋」「蘆火野(あしびの)」「放浪家族」など精力的に作品を発表。そして、多くの作品がテレビドラマ・舞台化され話題となった。1946年「笛」「塔」で第5回野間文藝賞奨励賞を受賞。1980年「茜いろの坂」で第15回吉川英治文学賞を受賞。 既述以外の主な作品に「刺客の娘」「幕末の刃影」「破獄者」「悪徳」「野望」「黒い氷河」「夜の傾斜」「炎の氷河」「無韻の韻」「落日の手記」「贋物語」「雨季」「夜の雅歌」「吹雪に暮れて」「忘却の河」「喪失の季節」「愛の孤独」「除夜の扇」「風と虹の物語」などがある。
【記念館】北海道立文学館(北海道札幌市中央区中島公園1-4)

東京都
・堀辰雄(1904~1953年)

 作家。東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎らと知り合う。また小林秀雄や永井龍男らの同人誌にも関係し、プロレタリア文学派と芸術派という、昭和文学を代表する流れの両方とのつながりを持った。  1926年、中野重治らと同人誌「驢馬」を創刊。この頃は「水族館」などのモダニズムの影響を強く持った作品もある。1930年に「聖家族」で文壇デビュー。この頃から肺を病み、軽井沢で療養することも多く、そこを舞台にした作品を多く残したことにもつながっていく。また病臥中にマルセル・プルーストやジェイムズ・ジョイスなどの当時のヨーロッパの先端的な文学に触れていったことも堀の作品を深めていくのに役立った。
 1934年、矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたため、翌年八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に二人で入院する。しかし、綾子はその冬に亡くなる。この体験が堀の代表作として知られる「風立ちぬ」の題材となった。  戦時下の不安な時代に、時流に迎合しない堀の作風は後進の世代の中にも多くの支持を得た。立原道造、中村真一郎、福永武彦たちが堀の門下のような存在として知られている。
 主な作品に「美しい村」「風立ちぬ」「かげろふの日記」「曠野」などがある。
【記念館】堀辰雄文学記念館(長野県北佐久郡軽井沢町大字追分662)

・隆 慶一郎(1923~1989年)
 脚本家、時代小説家。東京・赤坂生まれ。本名は池田一郎。東京大学文学部仏文科卒。長い間、本名で脚本家として活動した。筆名の「隆慶一郎」を名乗って活動したのは晩年前の約5年間だけだ。戦時中は学徒出陣で出征、陸軍士官として中国大陸を転戦した。終戦後、復学して後に創元社(現在の東京創元社)に入社。
その後、中央大学助教授などを経て1957年から脚本家として活動開始。脚本家時代は映画「陽のあたる坂道」(日活)、「にあんちゃん」(日活)、「錆びた鎖」(日活)、「夏の秘密」(松竹)、テレビドラマ「水戸黄門」(TBS)、「鬼平犯科帳」(NET)、「大忠臣蔵」(NET)、「ご存知遠山の金さん」(NET)、「長崎犯科帳」(日本テレビ)、「破れ奉行」(テレビ朝日)、「日本犯科帳・隠密奉行」(フジテレビ)など多数。1959年、シナリオ作家協会賞受賞。
 1984年、小説家として第一作「吉原御免状」を発表。隆慶一郎はこのときに名乗った筆名。この処女作は第95回直木賞候補作となり、結局は落選したが、下馬評ではマスコミに最有力候補に挙げられ、時代小説で大きな話題となった。1989年、日本映画プロデューサー協会特別賞、「一夢庵風流記」で第2回柴田錬三郎賞受賞。
 隆の小説の特徴は人物描写、とりわけ男の生きざまや人情を描くのに非常に秀逸な点が挙げられる。また、これまであまり描かれることがなかった農民以外の庶民の歴史を描くことに成功している。既述以外の主な小説に「柳生刺客状」「死ぬことと見つけたり」「花と火の帝」「かぶいて候」「駆込寺始末」「見知らぬ海へ」「風の呪殺陣」ながある。

大阪府
・織田作之助(1913~1947年)

 小説家。大阪市南区生玉前町(現在の天王寺区上汐町)生まれ。新戯作派(無頼派)の一人として活躍し、“オダサク”の愛称で親しまれた。
 1931年、第三高等学校文科甲類(現在の京都大学教養学部)に入学。卒業試験中に喀血し、白浜温泉で転地療養。その後、復学するが勉学の意欲を失い、1936年、出席不足で退学。1935年ころ学生時代に後に妻となる宮田一枝と出会い同棲を始める。同時期、作家活動を開始。当初は劇作家を志望。スタンダールの影響を受けて小説家へ志向を転換。青山光二らとともに同人雑誌「海風」を創刊。1938年、処女作「雨」を発表して武田麟太郎の注目を受ける。1939年、宮田一枝と挙式。この時期、日本織物新聞社や日本工業新聞社へ勤務。
 1940年「夫婦善哉」が改造社の第一回文芸推薦作品となり、これを機に本格的な作家生活に入る。戦時中は長編小説「青春の逆説」が発禁処分を受けた。
 主な作品に小説で「ひとりすまう」「雨」「俗臭」「夫婦善哉」「続 夫婦善哉」「放浪」「探し人」「面会」「子守歌」「合駒富士」「婚期はずれ」「青春の逆説」「人情噺」「黒い顔」「許婚」「写真の人」「雪の夜」「家風」「航路」「立志伝」「世間胸算用」「天衣無縫」「五代友厚」「月照」「勧善懲悪」「素顔」「漂流」「事始め」「異郷」「武家義理物語」「髪」「預言者」「奇妙な手記」「土曜夫人」「怖るべき女」「死神」「大阪の女」「旅への誘い」「十八歳の花嫁」、評論で「可能性の文学」「大阪論」、戯曲で「落ちる」「饒舌」「朝」「モダンランプ」「夜光虫」などがある。

和歌山県
・中上健次(1946~1992年)

 小説家。和歌山県新宮市生まれ。和歌山県立新宮高等学校卒。本名は表記は同じだが、読みは「なかうえ」。被差別部落の出身。
 1975年「岬」で第74回芥川賞を受賞。戦後生まれで初めての芥川賞作家として話題を呼んだ。1992年、腎臓がんのため死去。享年46。
 中上は出身地である紀州にこだわった紀州三部作「岬」「枯木灘」「鳳仙花」で土着的文学世界を築いた。主な作品に「地の果て至上の時」「奇蹟」「讃歌」「軽蔑」「物語ソウル」「日輪の翼」「紀伊物語」「野生の火炎樹」「千年の愉楽」「化粧」「鳩どもの家」「十八歳 海へ」「水の女」「重力の都」「蛇淫」「火まつり」「十九歳の地図」「天の歌:小説都はるみ」などがある。

山口県
・金子みすゞ(1903~1930年)

 童謡詩人。筆名は「かねこ みすず」、本名はテル。山口県大津郡仙崎村(現在の山口県長門市仙崎)に生まれた。史料によると、金子みすゞが童謡を書き始めたのが20歳ころというから、わずか26年間の生涯で、実際の詩作期間は6~7年ぐらいのものだったと思われる。この間に512編もの詩を綴ったとされる。1923年9月、「童話」「婦人倶楽部」「婦人画報」「金の星」の4誌に、一斉にみすゞの詩が掲載されるという鮮烈なデビューを飾った。当時「童謡」の選者だった西条八十が、みすゞを「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛したほど、目覚しい活躍をみせた。
ただ、その生涯は決して明るいものではなかった。23歳で結婚したが、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気・離婚と苦しみが続いた。遂には前夫から最愛の娘を奪われないために、娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を残し、服毒自殺したのだ。
それから50余年長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫(現在の金子みすゞ記念館館長)らの努力で遺稿集が発掘され1984年に再び世に送り出され、瞬く間に広く知られるようになってしまった。  みすゞの詩集の原点は、小さないのちを慈しむ思い、いのちなきものへの優しい眼差しにあり、こうした視点が「大漁」などの作品につながっている。郷里の仙崎は古くから捕鯨で成り立っていた漁師の村だった。鯨に対する畏敬の念から鯨墓が存在したという。みすゞは鯨の供養のために鯨法会をする地域の慣わしに感銘し「鯨法会」という作品を書いているほど。
 既述以外の代表作に「わたしと小鳥とすずと」「こだまでしょうか」「さびしいとき」「こころ」「愛それは行動です」などがある。
「こだまでしょうか」は公益社団法人、ACジャパンのテレビCMでもお馴染みの、
 「遊ぼう」っていうと
 「遊ぼう」っていう
 「ばか」っていうと
 「ばか」っていう ……
 あの詩だ。東日本大震災の後、頻繁に流されたあのCMで多くの人が耳にしているはずだ。
【記念館】金子みすゞ記念館(山口県長門市仙崎1308)

香川県
・西村寿行(1930~2007年)

 小説家。本名の読みは「にしむら としゆき」、通称「にしむら じゅこう」。香川県香川郡雌雄島村大字男木(男木島、現在の香川県高松市男木町)で生まれた。旧制休学を卒業後、新聞記者、タクシー運転手、小料理屋など20近い職種を経験した。
 1969年に動物小説「犬鷲」で第35回オール読物新人賞佳作となりデビュー。1971年にノンフィクション「世界新動物記」、1973年に処女長編小説「瀬戸内殺人海流」を出版。以後、動物小説、社会派ミステリー、アクション小説(バイオレンス小説)、パニック小説など幅広いジャンルで作品を発表、ベストセラー作家となった。  1979年には長者番付の作家部門第1位となり、1980年代もベスト10上位に名を連ねた。また、同時代の人気作家、半村良、森村誠一とともに「三村」とも呼ばれた。
 1976年「君よ憤怒の河を渉れ」が高倉健主演、佐藤純弥監督で、1978年「犬笛」が菅原文太主演、中島貞夫監督で、1979年「黄金の犬」が鶴田浩二主演、山根成之監督で、1982年「化石の荒野」が渡瀬恒彦主演、長谷部安春監督でそれぞれ映画化されている。
 既述した以外の主な著作に「峠に棲む鬼」「怒りの白き都」「魔の牙」「修羅の峠」「蒼き海の伝説」「虚空の舞い」「地獄」「妖魔」「魔笛が聴こえる」「神の岬」「荒ぶる魂」「汝は日輪に背く」「憑神」「鷲の巣」「闇の法廷」「まぼろしの獣」「魔の山」「安楽死」「牙城を撃て」「妄執果つるとき」「鬼が哭く谷」「わが魂、久遠の闇に」「蒼茫の大地、滅ぶ」「滅びの笛」「わらの街」「垰(たわ)」「呑舟の魚」「闇に潜みしは誰(た)ぞ」「秋霖」「風紋の街」「空蝉の街」「垰(たわ)よ永遠(とわ)に」「汝!怒りもて報いよ」など多数。

<国外>
・埴谷雄高(1909~1997年)

 作家・評論家。台湾の新竹に生まれる。本名は般若豊(はんにゃ・ゆたか)。子供心に台湾において支配者・日本人を強く意識し、罪悪感を感じていたという。14歳の頃、東京に引っ越す。代表作は存在の秘密や大宇宙について語った思弁的な大長編小説「死霊(しれい)」。世界文学史上未曾有の形而上小説だが、未完に終わった。  青年期に思想家マックス・シュティルナーの主著「唯一者とその所有」の影響を受け、個人主義的アナーキズムに強いシンパシーを抱きつつ、ウラジーミル・レーニンの著作「国家と革命」に述べられた国家の消滅に一縷の望みを託し、マルクス主義に接近。日本共産党に入党し、地下活動に従事。検挙後は未決囚として豊多摩刑務所に収監され、形式的な転向によって釈放された。獄中ではカント、ドストエフスキーから圧倒的な影響を受けたという。
 1942年「ダニューブ」を翻訳、1943年「偉大な憤怒の書」を翻訳、1946年、雑誌「近代文学」を創刊。大作「死霊」を連載開始。1950年「不合理ゆえに吾信ず」を刊行、同作で第6回谷崎潤一郎賞を受賞。1976年、死霊全五章で日本文学大賞を受賞。1990年、藤村記念歴程賞を受賞。1946年に連載開始した「死霊」を途中、中断しつつも、49年にわたって執筆、1995年に第九章を発表した。
 埴谷雄高忌は「アンドロメダ忌」と称されている。

・李 恢成(1935~)
 小説家。読みは(りかいせい、イ・ホェソン)。樺太真岡郡真岡町出身。国籍は韓国(1998年取得)。早稲田大学文学部露文科卒。1945年の太平洋戦争の敗戦後、家族で日本人引揚者に紛れ込んで樺太から脱出。大村の収容所まで行き、朝鮮への帰還を図ったが果たせず、札幌に住んだ。大学卒業後、最初は朝鮮語による創作を目指したが果たせず、日本語での創作活動に切り替えた。朝鮮新報社などに勤務したが、その後、朝鮮総連から離れた。
祖国分断に苦悩する在日朝鮮人の家族を描いた処女作「またふたたびの道」で、1969年の第12回群像新人文学賞受賞を機に作家活動に入った。1972年「砧をうつ女」で第66回芥川賞を受賞。1994年「百年の旅人たち」で野間文芸賞を受賞。既述以外の代表作に祖国朝鮮の同時代の青年群像を描いた大作「見果てぬ夢1-6」、自伝的な大河小説「地上生活者」ほか、「流民伝」「青春と祖国」「可能生としての『在日』」「北方からきた愚者」「未成年の森」「四季」「乱像」「追放と自由」「私のサハリン」「イムジン江をめざすとき」「北であれ南であれ わが祖国」「約束の土地」「青丘の宿」「われら青春の途上にて」、翻訳で「不帰 金芝河」などがある。
祖国統一を目指す純粋な悲願と、在日朝鮮人であるが故に、常に風化の危機をはらんでいる民族的主体性の回復という重い主題に、様々な切り口から取り組んだ作品を執筆し続けている。
【記念館】北海道立文学館(北海道札幌市中央区中島公園1-4)