史跡を訪ねて 戦乱の舞台編

 古代から明治維新の時代まで、日本列島各地で大小、様々な戦乱がありました。英傑・賢人による時代の変わり目になった戦乱から、一部の不平分子の反乱まで、数多(あまた)の戦いが繰り広げられ、その戦乱を機に英雄になった人物、あるいは悪役、果ては悪魔呼ばわりされるようになった人物もいるかも知れません。第一弾として、日本史に登場する、そうした主な戦乱をざっと挙げてみました。
 名所・旧跡を訪ねる旅、あるいは秘湯めぐりの旅の途中、急がない旅なら、ついでに、少し足を延ばして、そんな戦乱の舞台を訪ね、古(いにしえ)に思いを馳せるのも一考ではないでしょうか。新たな発見があるかも知れません。

<北海道>
箱館戦争

 現在の凾館市の五稜郭を本拠にした幕軍と、薩長を中心とする官軍の間で繰り広げられた最後の戊辰戦役。五稜郭の戦いとも呼ばれます。箱館戦争とは盛岡藩宮古村(現在の岩手県宮古市)沖での宮古湾海戦および、松前の戦い、木古内の戦い、二股口の戦いを総称して指します。  明治元年(1867)10月から翌年5月にかけて、王政復古と江戸城の明け渡しに不満を抱く、海軍副総裁・榎本武揚を主将とする江戸幕府の脱走軍が、箱館五稜郭に拠って臨時政府「蝦夷共和国」が誕生しました。蝦夷島総裁に榎本武揚、松平太郎が副総裁、荒井郁之助が海軍奉行、大鳥圭介が陸軍奉行、土方歳三が陸軍奉行並となりました。ほかに永井尚志が箱館奉行、人見勝太郎が松前奉行、松岡四郎次郎が江差奉行、沢太郎左衛門が開拓奉行に選ばれました。そして、これは単なるパフォーマンスではありませんでした。あまり知られていないことですが、英仏両国の軍艦が箱館に入港し、両国公使が榎本の団体を、政府として承認しているのです。  しかし、明治新政府がこのような独立を許すはずがありません。政府軍の攻撃は明治2年3月から開始されました。序盤は善戦したものの、徐々に各拠点を政府軍に占領された榎本軍は、本営の五稜郭に追い込まれていきました。この戦いの中で榎本軍の役職者のほとんどが戦死しました。土方歳三もその一人でした。そして、榎本軍は政府軍、黒田清隆らに攻められて遂に降伏、開城しました。
ここで懸命に黒田に説得されて自害を思いとどまり、投降した榎本武揚はその後、皮肉にも維新政府に出仕しいくつもの要職を務めました。その結果、かつては幕府海軍の司令官として官軍と戦った敵将の一人であったにもかかわらず、その頃、海軍の最高位であった海軍中将に初めて任じられたほど。そして、維新の英傑たちのほとんどが19世紀中に死んでいますが、彼は20世紀に足を踏み入れ長寿を全うしました。
五稜郭所在地は、渡島国亀田郡五稜郭(現在の北海道函館市)。

<岩手・秋田・宮城県>
前九年の役

 当時の陸奥国から出羽国にかけた、現在の岩手・秋田・宮城の3県にまたがる地域で起こった、“俘囚”と呼ばれる地元実力者たちがからんだ戦乱。当時の 胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡の奥六郡にわたる地域を主戦場とした戦役です。1051年から1062にわたって繰り広げられました。 1062年、源頼義および義家が出羽の清原武則の救援を得て、奥羽地方の豪族、安倍頼時およびその子貞任・宗任らを衣川・鳥海・厨川柵で征討した戦役です。平定した1062年まで、実際は12年にわたって断続的に戦は続きました。後三年の役とともに、源氏が東国に勢力を築く契機となりました。

後三年の役
 前九年の役の後、奥州の覇者となった清原氏の間に起こった内輪もめで、清原真衡の死後、家衡が清衡を襲って起こした戦乱。前九年の役に続いて1083年より87年の間に起こり、父の跡を継いだ陸奥守・源義家が清衡を助け、家衡・武衡らを金沢柵に攻めて平定しました。清衡は、実父の藤原経清の姓、藤原に復し、奥州藤原氏の祖となりました。これらの戦乱を経る中で後に、都にも聞こえるようになる藤原平泉王朝の主、奥州藤原家(初代清衡、2代基衡、3代秀衡)が登場してきます。 秋田県横手市北部の金沢地区に、後三年の役金沢資料館があります。

<福島県>
会津戦争

 現在の福島県を主戦場とした戊辰戦争。とりわけ、今日でも知られているのが、同県西部の会津若松市で1868年、藩主松平容保以下、会津鶴ヶ城に籠城し老若男女の会津藩挙げて官軍に徹底抗戦し、壮絶な戦いの末、ついに降った戦役です。白虎隊の挿話はその一途さ、悲惨さを後世に伝えています。このほかにも福島県下、白河口、磐城、二本松、母成峠、旗巻峠などで激戦を展開しました。

<新潟県>
北越戊辰戦争

 幕末維新の一種特異な英雄、河井継之助に率いられた越後長岡藩の“武士の一分”をかけた戦争。幕軍と官軍の間で繰り広げられた1867年の戊辰戦役の中でも、会津戦争とともに、悲惨かつ激烈を極めた戦争の一つです。
この激烈さを事実上一人で引き起こしたのが継之助です。開明論者であり、封建制度の崩壊を見通しながら、執政として長岡藩を率いて官軍と戦ったという矛盾した行動は、長岡藩士として生きなければならないという強烈な自己規律によって、“武士道”に生きたからでした。
継之助は、最初から戦争するつもりなどありませんでした。日本中が官軍か幕軍に分かれて戦争しようという時にも、長岡藩だけはどちらにも属せずに武装独立しようと思っていたのです。武装独立したうえで、信濃川沿いの7万4000石の地に彼の考える理想国家をつくり上げようとしていたのです。そんな夢がついえた時、彼は藩を挙げて決起しました。
長岡藩にとっての不幸は、官軍が長岡藩に対し使者を一度も派遣せず、戦うのか、降伏するのか、あるいはそれより以前の問題として新政府の系列に入るのか入らないのか。そういう外交が一切なかったことです。官軍が長岡藩とやった交渉といえば越後諸藩の代表たちを高田に集めたときに「国力相当の人数を官軍に差し出せ」といったことぐらいでした。官軍は、長岡藩をなだめ、外交によって新政府に引き入れようという努力は一切しませんでした。彼らは「長岡征討」を決めて越後に乗り込んできたのです。 新政府は兵力が乏しく、財力の余裕がなく内政外交ともに混乱し、外交で物事を解決していこうという大政府らしいゆとりもありませんでした。そうした外交を担当できる能力者がいなかったということです。唯一、西郷隆盛がそうした能力があったのでしょうが、彼は江戸のことで手一杯で北越の方には手が回らなかったのです。
 当時の越後国長岡藩は、現在の新潟県長岡市。

<東京都>
江戸城無血開城

 1868年(慶応4年)、征討軍(官軍)が「明日は江戸総攻撃」を予定していた、その前日、征討軍・西郷吉之助と幕軍・勝安房守(海舟)が会見。敗色濃い戦況にもかかわらず、決して卑屈になることなく率直な勝の嘆願に対し、西郷も江戸城、兵器弾薬の早期引き渡しや、徳川慶喜が恭順の実をあげてもらいたいと強く申し入れるなど、両者のお互いに駆け引きのない、具体的な交渉により戦争が回避され、江戸が戦火から守られることになりました。
 これにより慶喜が上野寛永寺の塔頭、大慈院に入って蟄居、謹慎。勝の担当外の軍艦の受け渡しについては結論を出せずペンディングとなりましたが、東征大総督有栖川宮熾仁親王への徳川氏の居城、「江戸城の明け渡し」が決定しました。
 薩長を中心とする西南雄藩のホンネは、徳川氏の武力=軍事的打倒でした。革命には、過去の権威に対して血の犠牲が要るのです。それは、交渉にあたった西郷の思いも同じだったに違いありません。現実に征討軍は東海道、東山道両道から江戸に迫っており、歯車はそのように回っていました。  しかし、西郷は会見に臨んで勝者の驕りなど全くなく、高飛車な姿勢は少しも見せませんでした。それは西郷の素晴らしい本来の性格とともに、親交のあった英国公使ハリー・パークスとの話の中で「どこの国でも、恭順、すなわち降服している者に対して攻撃を加えるということはないはずだ」という言葉に心を動かされ、強烈な印象が残っていたからに他なりません。
 わずか2回の会見で江戸城の無血開城が実現したのは、双方の代表が西郷と勝の2人だったからこそです。実は両者はこの時が初めての面談ではありません。この時より4年前の元治元年9月11日、大坂の勝の旅館で初めて対面しています。その時から互いに満幅の信頼を抱きあっていました。そうした背景が、この無血開城を可能にしたのです。

上野戦争
 1868年(慶応4年)、朝廷に対する徳川15代将軍慶喜の恭順を不満に思う幕臣らが、上野の寛永寺に輪王寺宮(北白川宮能久親王)を奉じ、「彰義隊」と称して上野に集結。官軍に徹底抗戦の構えを見せていました。西郷隆盛や木戸孝允の英断により、この攻撃の総司令官に大抜擢されたのが大村益次郎でした。
5月15日早暁、上野攻撃の火ぶたは切られました。彰義隊の数、およそ2000。益次郎は薩長両藩およびアームストロング砲を主力に、10数藩による完璧の布陣で臨み、いささかの狂いもなくわずか1日で平定しました。

<長野県>
川中島の戦い

 戦国の雄、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が北信濃の支配権をめぐって戦った5回にわたる戦役。第一次の1553年から第五次の1564年にかけて足掛け12年間にわたる戦いでした。最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地、川中島(現在の長野市南郊)を中心に行われたことから、この周辺で繰り広げられた両者の間の合戦を総称して川中島の戦いと呼びます。結局この合戦の決着はつきませんでした。
川中島の所在地は長野県南郊、長野県更級郡東北部で、布施(第一次)、犀川(第二次)、上野原(第三次)、八幡原(第四次)、塩崎(第五次)がそれぞれ戦場となりました。

<静岡県>
三方ヶ原の戦い

 三方ヶ原は静岡県浜松市北方の台地。天竜川と浜名湖の中間に位置します。
1572年(元亀3年)、武田信玄軍2万7000人と徳川家康・織田信長の連合軍1万2000人(うち信長の援軍は3000人)が激突。信玄の上洛作戦の過程で行われた戦いであり、武田軍が圧勝。家康にとっては歴史的大惨敗を喫し、彼自身生涯唯一の敗戦記録として有名な戦となりました。ただ、信玄はこの後、上洛の途中で病没。信長および家康にとって、とりわけ恐れていた大名の一人が消えたわけです。
所在地は遠江国敷知郡三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)。

<岐阜県>
壬申の乱

 岐阜県不破郡関ケ原、慶長5年(1600)、徳川家康と石田三成率いる東西両軍がこの地で激突しました。その約930年前、古代日本の命運を決める合戦が、やはりこの地で繰り広げられました。672年夏、天智天皇亡き後の皇位をめぐって、大友皇子を代表者とした近江朝廷と、吉野で挙兵した皇弟、大海人皇子(後の天武天皇)は尾張・美濃の軍隊数万を率いて、この不破に陣地しました。叔父と甥の間で争われた、古代史上最大の戦闘でした。この両者の最後の決戦は、近江王朝が置かれていた現在の滋賀県になりますが、主戦場はこの地。

関ケ原の戦い
 豊臣秀吉の死後、豊臣政権は内部分裂。福島正則、加藤清正らの武将グループと、五奉行・石田三成をはじめとする官僚グループが対立。五大老筆頭の徳川家康は福島正則らを支持したため、彼らは家康と強く結び付いていきます。これも天下取りに向けた家康の策略でした。家康の台頭を警戒した三成は五大老の一人、毛利輝元を総大将に担ぎ上げ、家康との決戦を計画しました。
この地で慶長5年(1600)9月15日、徳川家康を頭とする東軍7万5000と、石田三成の西軍8万4000とが天下を争いました。諸大名はいずれかに属したから天下分け目の戦いと呼ばれました。一進一退の攻防が続く中、西軍は将兵の数では勝っていましたが、まとまりがなく戦意に欠け、小早川秀秋の裏切りによって東軍が勝利しました。以後、家康は天下の実権を握り、豊臣秀頼は摂津・河内・和泉の65万石の一大名となりました。
 関ヶ原の所在地は、美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町)。

<愛知県>
桶狭間の戦い

 現在も「桶狭間」の地名が残っているのは愛知県知多半島北部の地名。ただ、「桶狭間古戦場」伝説地があるのは愛知県豊明市。1560年、この地で織田信長は一世一代の勝負に出ました。戦の相手、駿河の今川勢との将兵の数の比較では織田勢はケタ違いに少なく、明らかに劣勢でした。
しかし、信長は今川勢の行軍ルートや敵方本陣の陣構えなどを事前に綿密に情報収集し作戦を立て、また折からの雷雨に見舞われるという天候も味方し、今川義元を奇襲して敗死させたのです。
信長は乾坤一擲、この勝ち戦をきっかけに一躍、天下取りへまっしぐら。他の戦国大名にも一目置かれる存在となりました。

小牧・長久手の戦い
 小牧は愛知県の西北部、名古屋市の北方、犬山市に通ずる街道の中間に位置する現在の小牧市。長久手は現在の愛知県愛知郡長久手町。1584年、織田信長亡き後、盟主の座を狙う羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)陣営約11万と、織田信雄(のぶかつ)・徳川家康連合軍の陣営約1万8000の間で行われた戦役。
 戦況は、勢力的には圧倒していた秀吉陣営が、戦術に統一性を欠いたことで、信雄・家康側有利でした。が、蒲生氏郷ら別働隊が信雄領の伊賀・伊勢に侵攻し、そのほとんどを占領し、さらに伊勢湾に水軍を展開、信雄に精神的圧力を加えることに成功しました。そのため、信雄は大きく動揺。半年余りの後、秀吉は伊賀と伊勢半国の秀吉側への割譲を条件に講和を申し入れ、信雄がこれを受諾しました。
織田信雄に助勢を求められて戦端を開いた徳川家康でしたが、信雄が講和条件を受け入れてしまったことで、戦の大義名分を失ってしまった家康陣営は、遂に兵を引かざるを得なくなり、勝利したはずの戦は、連合軍としては戦い半ばで終息しました。

長篠の戦い
 長篠は現在の愛知県北東部の奥三河。ここに築かれた長篠城という小さな城、当時の呼称でいえば三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍と、甲斐(山梨県)から攻め寄せた武田信玄の子、勝頼の軍勢との間で、設楽原を舞台に行われた大規模な合戦。
この戦いで織田・徳川連合軍が、当時最新兵器だった3000丁の鉄砲を揃え、三段撃ちの新戦法を実行。この破壊力の前に、当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は成す術もなく殲滅され、織田・徳川連合軍が圧勝したと伝えられています。この結果、着実に天下統一への基礎を固めた織田信長に対して、信玄以来の重臣多数を失った武田勝頼の勢力は、急速に衰えていくことになりました。

<石川県>
 1474年(文明6年)に起こった一向一揆を皮切りに、一向一揆は北陸・近畿・東海地方で頻発しました。資料によると1488年(長享2年)6月、加賀国の真宗本願寺の門徒の百姓たち20万人が守護富樫政親の高尾城を包囲し、城を攻め落としました。全国的にみても、相手の戦国大名を倒し一国の政権を握ったのは加賀国だけでした。加賀一国はこの後、約100年にわたって「百姓の持ちたる国」と呼ばれる門徒と武士の集団支配のもとに、雑民の共和国が出現したのです。この一揆による加賀国の支配は、織田信長によって一揆が打倒されるまで続きました。
 一向一揆をピークとする本願寺門徒の下克上的運動に対し、本願寺八代法主・蓮如はこれを放置したのではありません。終始ブレーキをかけ続けました。数々の掟の御文がそれを証明しています。長享2年の一揆の時に、一揆の有力リーダーに宛てた、いわゆる「お叱りの御文」が残っています。意訳すると、「本願寺の門徒たちが一揆などの悪行を企てたとのことが噂されている。言語道断のことである。今後、このような悪行を行う者は、親鸞の門徒の組織から追放するものである」というものです。

<滋賀県>
賤ヶ岳の戦い

 賤ヶ岳は滋賀県北部、琵琶湖北端にある海抜423㍍の山。1583年、ここ賤ヶ岳で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)軍約5万が、旧織田家の重臣・柴田勝家、佐久間盛政らの軍約3万を破った戦いです。旧織田勢を二分する激しい戦いでした。敗れた勝家は越前北ノ庄(現在の福井県)の居城で自刃。姉川の戦いでの浅井長政との離別後、勝家に嫁していた信長の妹、お市も燃え盛る炎の中で夫とともに、その数奇な生涯を終えました。
ただ、この時も娘3人は助け出されました。後に豊臣秀吉の側室となる茶々(淀君)、徳川秀忠に嫁いで家光や千姫を産むお江(ごう)、京極高次に嫁いだお初(はつ)の3人です。淀君がいなければ豊臣秀頼も生まれませんでした。
この勝利で秀吉は信長亡き旧織田勢の事実上トップに躍り出て、以後順次、勢力を拡大し天下人まで昇りつめました。
 所在地は近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近。

壬申の乱
 天智天皇の死後、皇位継承をめぐり叔父・大海人皇子と甥・大友皇子の間で争われた古代史上最大の内乱。この戦闘は、主戦場は岐阜県の関ケ原ですが、決戦場は現在の滋賀県です。  天智天皇の死後、大友皇子が跡を継ぎますが(即位したかどうかは諸説ある)、それまでの天智天皇の独裁政治――白村江の大敗、近江大津宮への遷都の強行、戸籍(庚午年籍、こうごねんじゃく)の作成などに対する不満が爆発。吉野に隠棲していた大海人皇子はこの機を逃さず挙兵。美濃、伊勢から兵を動員し、琵琶湖を挟むようにして大軍を二手に分けて大津へと進攻しました。  大友皇子率いる近江朝は迎撃体制を整え、1カ月の間は懸命に防戦しました。が、知略・戦略に優れた大海人皇子は終始、優位に戦いを進め、1カ月余りの激戦の後、近江朝側は「瀬田の戦い」で大敗。孤立した大友皇子は自害。勝利した大海人皇子は、飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)で即位し天武天皇となり、日本に律令制が確立する端緒となりました。 姉川の戦い  姉川は滋賀県東浅井郡にある川。伊吹山に発源、琵琶湖に注ぐ。1570年、織田信長・徳川家康連合軍(約3万強)が浅井長政・朝倉義景連合軍(約1.5万強)を破った戦い。戦闘は平地戦で、徳川軍は朝倉軍と、織田軍は浅井軍と対峙し、信長・家康連合軍が勝利しました。
浅井長政には信長の妹、お市が嫁いでいましたが、長政の居城、小谷城の落城前にお市と長子と娘3人(茶々、初、江)は救出されました。が、長子(男子)は救出後、信長の指示でまもなく殺害されました。
 戦場所在地は近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)。

<奈良県>
大化の改新

 大化元年(645)夏、中大兄皇子(後の天智天皇)を中心に、中臣鎌足ら革新的な朝廷豪族が、50数年間も大臣の座にあった蘇我馬子以来、権力をほしいままにしていた蘇我大臣家(蘇我蝦夷・入鹿)を、クーデター「乙巳(いっし)の変」で滅ぼして、開始した古代政治史上の大改革です。この結果、天皇家を中心とする中央集権体制が確立されました。退位した皇極女帝の同母弟、軽皇子が即位し孝徳天皇に、中大兄皇子が皇太子となり、大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の廃止などの政治改革が断行されました。
 645年末、100年もの間都だった飛鳥を離れ、難波(大阪)へ遷都。翌646年、中大兄皇子は「改新の詔(みことのり)」を発表。人民や土地はすべて国家のものだとした公地公民制や班田収受法などの実施を宣言したとされています。が、現実に実行されたかどうかは疑問が残ります。

吉野行宮(よしのあんぐう、後醍醐天皇の吉野遷幸)
 吉野は奈良県南部の地名で、古くから大和国の一部です。平安初期から修験道の根拠地。奈良時代の山岳呪術者で、修験道の祖、役行者(=役小角)が吉野の金峰山・大峰などを開いたといわれています。「吉野行宮」とは、京都・室町に幕府を開いた足利尊氏との対立から、ここ吉野に逃れた後醍醐天皇により、吉野遷幸(1336)から後村上天皇の賀名生(あのう)遷幸(1348)まで約13年間、吉野に置かれた皇居のことをいいます。(南北朝時代)

<京都府>
保元の乱

 1156年(保元1年)に起こった内乱。鳥羽法皇が崩御すると、皇室内部では崇徳上皇と後白河天皇、摂関家では藤原頼長と忠通とのそれぞれ対立が激化しました。朝廷内部の軋轢が武力化し、遂に崇徳・頼長らが挙兵しようとした矢先、機先を制するように天皇方の平清盛や源義朝らは、崇徳上皇らの陣取る白河殿を、夜襲をかけて一気に上皇方を粉砕しました。崇徳側は敗れ、上皇は讃岐に流されました。頼長は矢に当たり死亡、源為義、平忠正は斬罪、源為朝は伊豆大島に流罪となりました。この乱は武士の政界進出の大きな契機となったといわれています。

平治の乱
 1159年(平治1年)藤原信頼と源義朝とが京都で謀反を起こした戦乱。公卿の藤原通憲(信西)と信頼との権力争い、武将の源義朝と平清盛との勢力争いを原因として起こりました。保元の乱後、後白河天皇はわずか3年の在位で皇子、皇子の二条天皇に譲位して院政を開始。平清盛は後白河上皇とその腹心、藤原信西(通憲)に重用されました。
が、源義朝は保元の乱で清盛と同様、勝利に貢献したにもかかわらず、なぜか冷遇されたことに不満を持ち、信西と敵対する院近臣、藤原信頼と結びつき、クーデターを画策。1159年、清盛の熊野参詣中に、義朝率いる軍勢は御所を襲撃。後白河上皇と二条天皇を幽閉し、信西の殺害に成功しました。しかし、急いで都に戻った清盛軍に敗れ去ったのです。この結果、源氏は平氏に敗れ、信頼は斬罪、義朝は尾張で長田忠致に殺されました。これにより、清盛の権力はますます強大になっていきました。

応仁の乱
 1467年(応仁1年)~1477年、足利将軍家の相続問題をきっかけとして、東軍・細川勝元と西軍・山名宗全とがそれぞれ諸大名を引き入れて、総勢20万を超える兵が全国から京都に集結し、二手に分かれて11年もの間戦うという未曾有の戦乱となりました。京都は戦乱の巷となり、以後、幕府の威令は行われず、群雄割拠の戦国時代に移っていきました。
 そもそもの発端は、有力守護大名の畠山氏、斯波氏双方に起こった家督争いです。対立する相手同士が、幕府の実力者だった細川勝元か山名宗全のいずれかを後ろ楯としたため抗争に発展、それに将軍家の跡継ぎ問題が加わりました。
 跡継ぎがいなかった室町幕府の第八代将軍・足利義政は、自分には男子が生まれないと考え、僧籍に入っていた弟の義視(よしみ)を、強引に還俗させ跡継ぎに指名しました。しかし、その後、義政に待望の男子(義尚、よしひさ)が誕生。生母の日野富子は、義視の後見人、細川勝元に対抗するため、山名宗全に後見を頼み、義尚を将軍にしようと画策。ここに至って、両派の全面対立は避けられないものとなりました。
 細川方(東軍)約16万、山名方(西軍)約11万の両派の全面戦争は、京都を焦土と化し、幕府の権威は失墜、世は群雄が割拠する戦国時代に突入していきました。まさに、明解な決着のない不毛の戦いでした

本能寺の変
 1582年、織田信長が備中高松城を包囲中の羽柴秀吉を救援しようとして本能寺に宿泊したとき、先発させた配下の明智光秀が、叛逆して丹波亀山城から引き返し、信長を襲って弑した事変です。光秀叛逆の本当の理由は果たして何だったのか。様々な説があり、今日でもなお真相は謎です。
 この事変が起こる前の状況をみると、信長は「長篠の戦い」(1575年)で武田氏を滅ぼし、配下の武将を司令官として関東、北陸、中国方面に派遣して、天下統一は目前でした。「天下布武」を唱え、他に例を見ない安土城を築き、その準備は万全のはずでした。
信長は支配地で楽市・楽座を奨励し、商工業者が自由に取引できるようにしました。また不必要な関所を撤廃して、経済と流通を活性化させました。また、南蛮貿易を積極的に導入し、鉄砲も戦略的に活用しました。信長は、これらの革新的な政策で旧体制を打破し、日本を新時代に導きました。そして、天下取りの階段を一気に駆け上がるはずでした。が、光秀の裏切りに遭い、天下統一を目の前にして、49年の生涯を閉じたのです。
 本能寺は、京都市中京区寺町通御池下ルにある法華宗の本山。旧地・本能寺址は京都市中京区蛸薬師通小川通西南角。

豊臣秀吉の「中国大返し」(岡山県~京都府)
 1582年、「本能寺の変」を知った秀吉が天下人への“運”を掴むのは、わずか1時間余りの決断だったといいます。このとき秀吉は、中国従軍の司令官として備中(岡山県)高松城攻めの本陣で・毛利・吉川・小早川の大軍とにらみあっていました。当時、織田家臣団の中で秀吉はナンバー5の地位でしかありませんでした。ところが、秀吉はそこで明智光秀討伐を即断します。遠征軍を率いて各地に布陣している織田家の部将たちの誰よりも速く、光秀を倒せばナンバー1なれる。そう秀吉は考えたのです。
 すぐ毛利家と和睦を結びました。間一髪でした。この和睦の誓紙を交わした1時間後、毛利方が上方に放っていた密偵が“信長死す”の情報を持って到着しています。つまり、もう少し遅れていたら、この後の秀吉の行動、そして、天下人への出世、大飛躍はなかったのです。この後の秀吉の行動は驚くほど素早いものでした。
 こうして中国撤退の秀吉軍2万余りの軍団は、連日の雨と洪水で“泥の海”と化した山陽道を凄まじい速度で駆け抜けて行きました。備中高松から山崎(京都府)まで約180㌔を、実質5日間で駆け抜けたといいます。この驚異的な速度の行軍を「中国大返し」と呼びます。この「中国大返し」が、秀吉を天下取りレースの主役の座に押し上げることになりました。

幕末の京都を震撼させた新選組
 新選組は1863年、江戸幕府が武芸に優れた浪士を集めて編制した警備隊です。芹沢鴨、近藤勇、新見錦、土方歳三、山南敬助、沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助らが属し、幕末の京都にあって反幕府勢力の鎮圧にあたりました。京都における新選組の戦法は、すべて集団で押し込み、確実に相手を倒しました。狙ったら決して逃がしませんでした。たった数人で斬り込んだ池田屋は唯一の例外です。最盛期でも300名弱でしたが、あれほど恐れられた集団はありません。
 新選組の性格を体現しているのが土方です。厳しい“鉄”の規律をつくったのも、集団で立ち向かうという戦法も土方が中心になってつくったものです。だからといって、土方にとって新選組がすべてではありません。時代の流れを消化する能力がなく、新選組が消滅してしまうと、もう何もできなかった近藤とは異なり、土方は新しいものを身につける能力を持っていました。合理的で近代的なのです。
 土方は新選組が消えてからも、いきいきと生きました。各地で繰り広げられた戊辰戦役を転戦しています。鳥羽・伏見の戦いに会津軍の一翼として参加し、奥羽越同盟、そして北海道へ移動、五稜郭に入城。ここ五稜郭の戦いでは総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎、海軍奉行・土方歳三、軍艦奉行・新井郁之助、陸軍奉行・大鳥圭介、開拓奉行・沢太郎左衛門-の通り、「蝦夷共和国」政府の役員の一員に名を連ね、官軍と最期の戦いに殉じ、銃弾に倒れました。

鳥羽・伏見の戦い
 1868年(慶応4年)1月3日、京都南部の鳥羽・伏見で、旧幕府軍と薩摩・長州を中心とする新政府軍が衝突(鳥羽・伏見の戦い)、戊辰戦争が始まりました。新政府に反発した会津・桑名などの諸藩が徳川慶喜を奉じ、薩長討伐に立ち上がったのです。しかし、旧幕府軍は錦の御旗を掲げた官軍=新政府軍の近代兵器の前に大敗、「朝敵(ちょうてき)」として追われることになりました。旧幕府軍最後の抵抗はその後、1年4カ月余にわたる戊辰戦争として各地で繰り広げられることになります。甲州勝沼の戦い、江戸城無血開城、宇都宮の戦い、長岡の戦い(北越戦争)、会津の戦い(会津戦争)、仙台藩降伏、庄内藩降伏、五稜郭の戦い(箱館戦争)がそれです。こうして明治維新の大局を決したのです。

<大阪府>
蘇我・物部の決戦

 587年7月、大和から河内にかけて大臣・蘇我馬子を総帥とする大和朝廷軍と、大連・物部守屋の軍勢の間で争われた戦乱です。それは崇仏派の馬子と排仏派の守屋との権力者争いでもありました。大和朝廷軍は当然、有力豪族で構成されているだけに、その数において物部軍の数倍に達していました。いくら武勇を誇る軍事氏族であっても、勝敗の帰趨は時間の問題と思われました。ところが、大和朝廷軍の将兵は豪族の指示で駆り出された農兵が多かったのです。これに対し、物部軍は軍事氏族だけに、死をも恐れない将兵がほとんど。このため、大和朝廷軍は圧倒的な数の優位を誇りながら、物部軍を攻めあぐねていました。
 そんなこう着状態の打開に大きく貢献したのが、この物部守屋討伐戦に蘇我系の血を引く諸皇子とともに参加していた、その当時、数え年で14歳の厩戸皇子(後の聖徳太子)です。厩戸は四天王に、「我らの敵、物部軍は仏法を信じず、尊い仏像を焼く賊敵でございます。なにとぞ四天王のお力により賊軍に勝たせ給え、もし我らが勝てば、必ず四天王のために寺を建て、末永く仏法を広め奉らん…」と全軍を前に祈願したといいます。
 これが大和朝廷軍全軍の士気を鼓舞し、物部軍を追い詰め7月10日、5世紀以来の巨大豪族、物部氏は遂に倒れました。守屋は河内渋川(現在の大阪府八尾市)で最期を遂げたといわれています。蘇我氏が興って以来、約1世紀、最後まで蘇我本宗家との権力闘争に、氏族の存亡を賭けた物部氏。その長い戦いに終止符が打たれました。

赤坂・千早城の戦い
 千早城は上赤坂城・下赤坂城と並び、現在の大阪府南河内郡千早赤阪村金剛山の西南腹にあった城です。1333年、楠木正成は坂路極めて険峻なこの山城の特徴を最大限に活かし、執権・北条氏の大軍を防いだことで有名です。
 赤坂城の戦いは1331年に河内国の赤坂城で楠木正成が、笠置山を落ち延びた護良親王を擁し、およそ500の少ない兵力で約20万~30万の鎌倉幕府軍と互角にわたりあった戦いです。1カ月後、赤坂城は陥落しました。
 千早城の戦いは1332年、後醍醐天皇の倒幕運動に呼応した楠木正成と鎌倉幕府軍との間で起こった合戦です。最終的に鎌倉幕府は討伐軍を派遣して鎮圧。後醍醐天皇を隠岐島に流し、関係者も処罰されました。が、正成は翌年も千早城に拠り抵抗を続けました。
 幕府方は上下赤坂城を陥落させた後、正成の1000人の兵が守る千早城を大軍で包囲しました。『太平記』によると、幕府方の兵力を「100万」と記しています。この数値にはかなり誇張があるとみられますが、それでも明らかにケタ外れの兵力差があったことは確かです。これに対し、楠木軍はわずか1000です。それでも正成が抵抗を続けられたのは石や丸太を崖から落とし、鎌倉軍の兵に油をかけ、火を放つなどの奇策を使ったからだといわれています。
いずれにしても、この戦いで弱体化した北条氏の実像が白日の下に晒される結果となりました。そこで事態は急速に転回、後醍醐天皇の建武の新政(1333)、そして足利尊氏による室町幕府(1336)開設、さらに南北朝時代へと動いていきます。
 千早赤阪村は大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分180番地。南海電鉄高野線・近鉄長野線「河内長野」駅、南海バス小深線「金剛山ロープウェイ前」行き・金剛バス千早線「千早ロープウェイ前」行き。

大坂冬の陣
 関ケ原の戦いの後、徳川家康は豊臣氏を滅ぼそうと謀り、豊臣家を挑発、方広寺の鐘銘事件(「君臣豊楽 国家安康」)を口実として、1614年冬(慶長19年11月)大坂城を攻めましたが、城は堅固で落ちず、翌月いったん和議を結んだ戦いです。
 攻め手の徳川軍は兵30万、大坂城にこもる豊臣方は兵10万。しかし、真田幸村(信繁)、後藤基次(通称又兵衛)、長宗我部盛親ら秀吉に恩を受け、また関ヶ原以後に没落した大名や牢人(浪人)衆たちが馳せ参じた大坂城の守りは堅固でした。
 そこで、家康はひとまず講和を結びます。その条件の一つとして大坂城の総構(そうがまえ)の堀を埋める際、本多正信に命じて、故意に二、三の丸の堀まで埋めさせ、大坂城を裸同然にしてしまったのです。

大坂夏の陣
 徳川家康が大坂冬の陣の和議条約を守らず、大坂城の内濠を埋めたので、大坂方の将士は憤激の余り、1615年夏(元和元年5月)豊臣秀頼を擁して再び兵を挙げました。徳川方は、豊臣方が城を旧状に復そうとしていることを理由に、再び15万の大軍で攻撃しました。
豊臣方の牢人衆は奮戦しますが、次々と討ち死にを遂げ、各所で徳川家康・秀忠の大軍に破られ、遂に大坂城は炎上。炎の中で秀頼・淀君以下、自刃。秀吉が全国を統一してからわずか25年後、豊臣家は滅亡しました。
 関ヶ原の戦いでの敗戦で、摂津・河内・和泉の3カ国65万石の一大名に転落していた豊臣家ですが、なおその存在を恐れる徳川家康に、淀君、秀頼は様々な謀略を仕掛けられ、あるいは翻弄され続け、遂に滅亡に追い込まれたのです。

<広島県>
厳島の戦い

 厳島は安芸国宮島の厳島。1555年、毛利元就が大内義隆を弑した陶晴賢を敗死させた戦いです。以後、毛利氏は中国地方に威を張るようになり、順次勢力を拡大し、同地方の雄となりました。  1551年、大寧寺の変で大内義隆を討ち、大内氏の実権を握った陶晴賢と対立するに至っていた毛利元就は同年、厳島の宮尾に城(宮尾城)を築きました。これは厳島が周防から安芸へ水運を利用する際、重要な位置を占めているためであり、同時に晴賢の軍を厳島に誘引する、いわば囮(おとり)の役割を果たすものでした。
元就は嘘の情報や、元就の家臣が内応を約束するという偽の書状を出したりするなどの謀略を使って陶軍を厳島におびき寄せました。その後の出世途上の元就の戦いに共通していることですが、大抵、彼は劣勢の兵力を補う手立てとして敵軍の武将同士に不和を起こさせるような、内応者がいるとか嘘やデマを意図的に流し疑心暗鬼に陥らせるといった謀略を張り巡らし、相手を混乱させつつ戦っています。このときもまさにその戦法を取っていました。
 陶軍は船団500艘、兵2万とも3万伝えられています。これに対し毛利軍は4000から5000程度だったとされており、明らかに毛利軍は劣勢にありました。この兵力差を埋めるために元就は、狭い厳島に陶軍を誘い込み、身動きの取りにくい状況を作り出すことに成功しました。そして、海上での戦いでより確実に勝利を収めるため、伊予の村上武吉・村上通康ら伊予水軍(約300艘の船団)に援軍を求めました。これにより、毛利軍は勝利を収め、陶家と大内家は弱体化していったのです。

<香川県>
屋島の戦い

 屋島は讃岐国屋島(現在の香川県高松市)の島山。昔は島、今は半島。ここ屋島で平安時代末期、1185年(天暦2年/寿永4年)、繰り広げられた源平の合戦、「治承・寿永の乱」の一つです。1184年、一ノ谷の戦い(現在の神戸市須磨区、源義経のひよどり越えで有名)敗戦後、しばらく船で流浪した後、平氏の総大将、平宗盛はここに本拠を置いたのです。
 ただ、弱体化したとはいえ、平氏はこの時点ではまだ瀬戸内一帯の制海権を持っていました。そのため、陸地戦とは異なり、海戦の経験の少ない源氏は、この時点では水軍戦力の問題も含め劣勢で、決定的な攻め手を欠いていました。
 が、ここで軍事の天才、源氏軍の指揮官・源義経がまたも登場します。義経は敵の意表を衝いて、嵐の中、船で四国にわたり、一気に屋島を攻略したのです。思いもかけない攻撃に防戦一方の平氏軍は敗れ、長門国彦島(現在の山口県下関市)へ退却しました。

<山口県>
壇ノ浦の戦い

 壇ノ浦は長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)。1185年(寿永4)3月24日。ここ壇ノ浦で行われた源平最後の合戦。栄華を誇った平氏が滅亡に至った「治承・寿永の乱」の最後の戦いです。 平氏は総大将・平宗盛が安徳天皇および三種の神器を奉じ、源氏は義経を総大将として戦い、激戦の末に平氏は全滅。二位の尼(清盛の妻=時子)は安徳天皇を抱いて入水しました。時代は源氏による武家政治、鎌倉時代の扉を開けつつありました。
 鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』によると、平家は500艘の船団を三手に分けて山鹿秀遠および松浦党らを将軍に任じ源氏に戦いを挑んだ。午の刻に平氏は敗北に傾き終わった-と簡潔に書かれているのみで、合戦の具体的な経過は分からない。そのため、信憑性に問題はありますが、『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語をみると、双方の戦力には諸説あります。当初は平氏の優勢が記されています。ところが、その後、源氏が反転攻勢に出て、そのまま源氏が押し、平氏が壊滅状態になり、勝敗は決しました。

四境戦争(第二次長州征伐)
 1866年(慶応2年)7月、幕府が36藩に命じて長州藩に対して行った、いわゆる第二次長州征伐です。長州に接する芸州口、大島口、小倉口、石州口の四つの国境から数万の兵を進めたため、この呼称があります。
これに対して長州は、海軍は高杉晋作、陸軍は慶応元年、木戸孝允の推挙により軍務大臣に抜擢されていた大村益次郎がすべての作戦を立てました。ここで高杉が組織したといわれる「奇兵隊」に代表されるように、侍出身者ではない農民兵らが大活躍し、幕府軍(第二次長州征伐軍)を退け勝利しました。
 幕府軍=征長軍が敗れた理由は、意見が統一されていなかったことと、新旧軍備の差にありました。第一次長州征伐時とは違って、今回は諸藩の反対論が強く、戦端を開いてからも意見の統一をみず、諸藩は不平不満を抱えながら、やる気のない戦闘へ突入していったのです。
 装備も雲泥の差がありました。征長軍の装備は旧式の火縄銃に槍、刀を持ち、甲冑に身を固めていました。これに対し、長州藩軍は軽装で、手には最新式のゲベール銃を持ち、西洋戦術で訓練された効率のよい戦闘を展開しました。征長軍は、いざ戦ってみて長州藩軍のその強さに驚き、敗走するのが精一杯でした。

萩の乱
 1876年(明治9年)、山口県萩市に起こった内乱。熊本の「神風連の乱」(1876年)と「秋月の乱」(1876年)に呼応し、維新政府に不満を抱いた士族、前原一誠(元参議)ら旧長州藩士約200名が挙兵し、県庁を襲撃した反乱です。
 しかし、期待した旧薩摩藩の不平士族の協力が得られず、逃走。山陰道から中央に出ようとしましたが、広島鎮台司令官・三浦梧楼らによって、挙兵から1週間余りで鎮圧されました。前原は島根県で捕らえられ、首謀者8人とともに斬首されました。
 前原一誠は吉田松陰門下生として名声があり、幕末、長州藩の尊攘派志士として活躍しました。が、木戸孝允らの文治主義に反対して武断主義を取りました。新政府では参議を経て兵部大輔となりましたが、1870年(明治3年)病気のため、辞任して萩に戻っていました。

<福岡県>
元 寇(蒙古襲来)

 チンギス=ハンが建設した大モンゴル帝国は、第5代フビライのときに国号を「元」としました。フビライは朝鮮半島の高麗を武力で服属させたほか、1276年には南宋を滅ぼして中国全土を征服し、ユーラシアを席捲した世界最大の帝国を築き上げました。そして、当然、日本への侵攻、征服を計画しました。
鎌倉幕府の八代執権・北条時宗は、服属を要求する元の勧告を強硬に断りました。その結果、元は1274年(文永11)と1281年(弘安)2度にわたり、数万もの兵で壱岐・対馬を侵し博多に迫りました。2度とも大風(「神風」と呼ぶ)が起こって、元艦の多くが沈没。西国の将兵の奮戦も加わり、元軍を大敗させました。
 最初は1274年、高麗軍を含む元軍約3万が九州北部に襲来、元軍の集団戦法や火器(「てつはう」)に、一騎打ち戦法を取る日本軍は苦しめられました。しかし、元軍は暴風雨により退却を余儀なくされたのです。これが「文永の役」です。以後、幕府は異国警護番役の強化、防塁(石塁)の構築などにより、2度目の襲撃に備えることになります。1281年、元軍は総勢14万で襲来しましたが、日本にとっては幸運にも、今回も総攻撃の直前、台風に直面し、元軍は壊滅的打撃を受けました。これが「弘安の役」です。
 元の日本征服計画が失敗したのは、元軍が海戦に不慣れだったこと、出撃基地となった高麗に様々な形で抵抗されたこと、日本側の武士が奮戦したこと、元軍が暴風雨に遭遇したことなどが原因です。

<佐賀県>
佐賀の乱

 1874年(明治7年2月)、江藤新平(前参議)、島義勇らが征韓論反対の政府に不満を抱き、佐賀で挙兵した事件。以後、続発する士族による乱の嚆矢(こうし)となりました。
 乱を率いた江藤、島はもともと不平士族をなだめるために佐賀に向かったのですが、政府の強硬な対応もあり、途中で軌道修正。その成り行きから決起することになったのです。しかし、旧佐賀藩内の士族も憂国党や中立党などに分かれ、一枚岩ではなかったのです。そのため、江藤らがもくろんだ「佐賀が決起すれば、薩摩の西郷など各地の不平士族が続々と後に続くはず」という考えは、不幸にも藩内ですら実現しなかったのです。
 その結果、不平士族による旧佐賀藩士1万1000人が蜂起した初の大規模反乱でしたが、東京・大阪・熊本の各鎮台の素早い対応もあり、佐賀県庁を占拠するなど激戦の末、鎮圧されました。首謀者の江藤、島らは死刑に処せられました。

<長崎県>
島原の乱

 1637~1638年、天草および島原の天主教徒(キリシタン)の起こした内乱です。島原・天草の乱とも呼ばれます。益田四郎時貞を首領とし、その徒3万7000人が島原半島に位置する原城(長崎県南島原市南有馬町乙)に拠り、幕将板倉重昌はこれを攻めたが勝てず戦死。次いで老中、松平信綱が九州諸侯(12万5000の戦力)を指揮してようやく城を落とし、鎮圧しました。勃発から終息まで4カ月にわたる、日本の歴史上最も大規模な一揆です。
 島原、天草両藩の農民、キリスト教徒に対する過重な年貢負担、百姓の使役酷使、キリシタンの迫害、飢饉による被害の拡大などが乱の原因です。両藩とも大名の国替えによる藩主の施政の劇的な変更、とりわけ農民にとって過酷な税制・使役労働などへの反発によるものでした。
 島原は、元はキリシタン大名の有馬晴信の所領で、領民のキリスト教信仰も盛んでした。が、1614年(慶長19年)、有馬氏が転封となり、代わって松倉重昌が入部。天草も元はキリシタン大名の小西行長の領地で、関ヶ原戦いの後に寺沢広高が入部しています。そして、その松倉、寺沢両氏とも、それまでとはがらりと治政を変え、圧政とキリシタン弾圧を断行しているのです。農民、キリシタンたちは、藩主の姿勢の違いにどれだけ面食らったことでしょう。
 島原は現在の長崎県島原市。

<熊本県>
西南戦争

 1877年(明治10年)西郷隆盛らが起こした反乱です。明治維新政府に対する不平士族の最大かつ最後の反乱で、現在の熊本県、宮崎県、大分県、鹿児島県の4県にまたがる戦となりました。西郷が征韓論に敗れて官職を辞し、鹿児島に設立した私学校の生徒が中心となって一騎当千の精鋭1万3000人が挙兵。明治10年2月15日のことでした。西郷軍には九州各地の士族が続々と加わり、数日の間に3万人以上に膨れ上がりました。
西郷軍は2月22日に熊本城を包囲しましたが、弾薬、食糧を十分に備えた谷干城以下4300人の籠城軍に手こずり、1カ月攻めても落とすことができませんでした。その間に政府軍が続々と駆けつけ、4月14日には包囲軍を破って熊本城に入り、同27日には鹿児島を占領しました。
熊本に通じる要路、田原坂での攻防戦はよく知られています。この戦いに政府軍は実に1日30万から40万の弾丸を費やしたといいます。その弾痕が今も田原坂の民家に残っており、戦いの凄まじさを伝えています。
こうして明治維新第一の功臣として日本最初の陸軍大将となった西郷隆盛は本拠鹿児島に引き返し、城山で自刃。以後、反政府運動の中心は自由民権運動に移りました。

<鹿児島県>
薩英戦争

 1863年(文久3年)7月、前年、横浜で起こった生麦事件の賠償金などその処理をめぐっての交渉決裂に伴い、薩摩藩と英国との間で起こった戦争です。
1862年(文久2年)8月21日、江戸から帰国途中の島津久光一行が横浜付近の生麦村を通過の際、騎馬の英国人4人と鉢合わせしました。上海在留商人リチャードソン、香港在留商人の妻ボロデール夫人、横浜在留のマーシャル、クラークです。狭い道を久光の駕籠のそばまで進み、進退きわまっている時、突然供頭の奈良原喜左衛門がリチャードソンに斬りつけました。落馬した彼を有村武次(後の海江田信義)がとどめを刺しました。これをみて他の従者も3人に斬りつけました。ボロデール夫人は無傷でしたが、他の3人は負傷して命からがら米領事館に逃げ込みました。この事件の現場は現在の第一京浜国道沿いで、碑が立っています。
この事件の処理をめぐって、幕府は賠償金と謝罪書を英国に差し出しましたが、当事者の薩摩藩は無視し続けていました。そこで英国は翌年6月27日、クーパー少将率いる英国艦隊7隻を鹿児島湾に進入させました。賠償金と犯人死刑の要求を勝ち取るために実力行使に出たわけです。薩摩藩はそれでも駆け引きで切り抜けようとしましたが、結局交渉は決裂しました。
当時の薩摩藩は天保山、祇園州(ぎおんのす)、砂揚場、弁天波止、大門口、袴腰など十カ所に砲台を持っていました。天保山砲台は、藩の調練所でもあり、薩英戦争の火ぶたはこの砲台より切られました。現在は天保山公園となっています。祇園州砲台は祇園神社近くの三角州のことです。
1863年、7月2日未明、英国は薩摩藩汽船3隻を拿捕しました。昼、薩摩藩砲台から83門の砲が火を噴き、攻撃が開始されました。薩摩の軍事力を甘くみていた英国は、当初はこの砲撃にあわてましたが、戦列を整えてからはとてもものの数ではなく、英艦隊はすべての砲台を破壊し、市北部を火の海として甚大な被害を与えました。