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長与専斎・・・わが国の医事行政、公衆衛生の基礎を確立した人物

 長与専斎は医学者であり、わが国の医事行政、公衆衛生の基礎を確立した人物で、明治の衛生行政機構を確立した優れた官僚でもあった。ちなみに、「衛生」は専斎の造語だ。専斎の生没年は1838(天保9)~1902年(明治35年)。

 長与専斎は、肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に数代仕えた漢方医の家に生まれた。号は松香、姓は藤原、名は秉継。父中庵は大村藩の侍医で、漢方を当時江戸幕医の最高権力者、多紀元堅樂春法印に学んでいる。4歳のとき父と死別、祖父俊達に養育された。この俊達も若いときから医術の才に恵まれ、30歳前後で大村藩はじめ近隣近在までその名が聞こえ、門前には診察を乞う人々であふれるほどの名医だった。

専斎は3歳で大村藩の藩校「五教館」(長崎県立大村高等学校の前身)で漢学の修行を始めたといわれる。その後、1854年(安政元年)、大坂の緒方洪庵の適塾に入門、専斎17歳のことだ。1858年(安政5年)には福沢諭吉に代わって塾頭となった。

1859年(安政6年)、緒方洪庵の助言を受けて長崎に赴き医学伝習所に入り、オランダ人医師ポンペに師事、西洋医学を学んだ。次いで、その後任のボードウィン、マンスフェルトに師事、医学教育近代化の必要性を諭される。そして、西洋の近代医学の根底にある基本的な思想に触れたものと思われる。それは、ポンペが著書の中で明快に語っているので、その言葉の一部をここに引用しよう。

「医療の対象は病気そのものである。患者の身分、階級、貧富の差、思想や政治の立場の違いを取り上げてはならない。(略)医術を出世や金儲けの道具にするものがいるが、全く唾棄すべきことである。人は自分のためでなく、何よりも公の社会のために生きなければならない」。

1864年(元治1年)、大村藩の侍医となり、1866年(慶応2年)再び長崎に出て医学研究に努め、1868年(明治元年)、長崎精得館(のち長崎医学校)の医師頭取(病院長)に就任した。翌年、精得館に予科を設けたが、日本の医学教育で予科が設置されたのは、これが最初だ。

1871年(明治4年)上京し文部省に入り、同年岩倉具視遣欧使節団に加わったが、途中、別れてドイツやオランダの医学および衛生行政を視察するとともに、医学教則・医師制度を調査した。1873年(明治6年)に帰国。1874年(明治7年)専斎は、相良知安に代わって文部省の医務局長となり、同年、東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務した。

1875年(明治8年)、文部省医務局が内務省に移管、翌年に衛生局と改称。専斎は1891年まで衛生局長に在任しその間、医制、創始期の衛生行政を確立。司薬場、牛痘種痘所の設置、コレラなど伝染病の予防規則の布告などを推進するとともに、衛生思想の普及に尽力した。「衛生」の語はHygieneの訳語として専斎が採用したものだ。

 1891年(明治24年)専斎は衛生局長を退いたが、1892年には専斎の意中の人、後藤新平が衛生局長となり、専斎の政策を継承し推進した。専斎は退任後、元老院議官、貴族院議員、宮中顧問官、中央衛生会会長などを歴任。また、石黒忠悳、三宅秀、佐野常民らと大日本私立衛生会(のち日本衛生会、現在の日本公衆衛生協会)を興し、会頭などを務めるなど、衛生行政界に重きを成した。

 自叙伝「松香私志」は、福沢諭吉の「福翁自伝」とともに、往時の適塾のありさまをうかがう貴重な史料だ。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」

二宮忠八・・・設計はライト兄弟より早かった、航空機の先駆的研究者

 二宮忠八は明治時代の航空機の先駆的研究者で、実際の飛行成功の偉業はライト兄弟に譲ったが、飛行機の設計はこの二宮忠八が早かった。あくまでも仮定の話だが、軍部が忠八の上申書を受理し、早くに航空機開発・研究に着手していたら、その後の日本の戦備、とくに空軍の力は当時でもより進んだものになり、違った歴史を刻み込んでいたかも知れない。忠八の生没年は1866(慶応2)~1936年(昭和11年)。

 二宮忠八は伊予国宇和郡八幡浜浦矢野町(現在の愛媛県八幡浜市矢野町)で商家の四男として生まれた。

 忠八は21歳のとき、丸亀の歩兵第12連隊に看護卒として入営。1889年(明治22年)の演習中に鳥が飛ぶのを見て飛行機の研究を志し、ゴム動力による紙製模型飛行機などを試作。そして、このゴム動力の鳥型飛行器の飛行実験に成功したことで、「人間が鳥のように飛ぶことができるかも知れない」という思いは確信に変わった。

 忠八はさらに2年間研究を積み重ね、1893年、人を乗せて飛ぶことができる両翼の長さが2・の玉虫型飛行器を完成させた。残る問題は飛行するための動力だけになった。ただ、この動力の確保が彼にとって極めて“重い”課題として残された。そして、思いもよらぬ“挫折”につながっていくのだ。

1894年、日清戦争が勃発。忠八もこの戦争に従軍する。従軍中、飛行機の必要性を痛感した彼は、設計図をつけて飛行機研究の重要性を述べた上申書を3度にわたって提出したが、ことごとく却下された。失望した彼は1898年、軍を除隊した。資力を蓄えてから独力で飛行機を完成させるためだ。
就職先として選んだのが製薬会社だ。忠八は大阪の大日本製薬⑭に入社。商才に長けたアイデアマンだった彼は10年足らずで大阪を代表する実業家の一人となった。こうして資金もできた彼は1908年、京都府八幡町に作業所を構え、飛行機の製作を再開した。

そして、飛行機の枠組みもでき上がり、動力としてオートバイ用のエンジンを取り寄せるだけとなっていた1909年のある朝、忠八の人生は暗転する。新聞に掲載されていた記事で、1903年のライト兄弟の有人飛行実験の成功を知ったからだ。(当時、このニュースはすぐには伝わらず、6年ほど遅れてようやく新聞に掲載された。)少年時代からの夢、「世界で最初に自分の作った飛行器が空を飛ぶ」ことは達成直前で、遂に果たせず、破れた。呆然自失の彼は完成間近の飛行器を壊し、以後、二度と飛行器を作ることはなかった。

 1915年(大正4年)、京都府八幡町(現在の八幡市)に飛行神社を造営、航空殉難者の霊を祀った。

*文中、飛行機を「飛行器」と「器」の文字を使っているのは忠八が、自分が作るものは飛行器とこだわって呼称しているため、それを尊重、そのまま使用しています。

(参考資料)吉村昭「虹の翼」

乃木希典・・・日露戦争の英雄は“虚構”光った文学の“才”

 「乃木大将」「乃木将軍」などの呼称で呼ばれることも多い乃木希典(のぎまれすけ)は、東郷平八郎とともに「日露戦争」の英雄とされているが、“殉死”の評価について諸説あるように、見方は分かれる。司馬遼太郎氏などのように「愚将」とする考え方も厳然としてある。その一方で、山口県、栃木県、京都府、東京都、北海道など全国各地に神として乃木を祀った「乃木神社」がある。乃木の生没年は1849(嘉永2)~1912年(大正元年)。

 乃木希典は現在の東京都港区で、長州藩の支藩である長府藩の藩士、乃木希次(のぎまれつぐ)の長男として生まれた。現在六本木ヒルズになっている長府藩上屋敷が生誕の地だ。幼少期に事故により左眼を失明した。1858年(安政5年)、乃木は長府藩に帰郷。1865年(慶応元年)、長府藩報国隊に入り、奇兵隊に合流し幕府軍と戦った。1871年(明治4年)、陸軍少佐に任官。1877年(明治10年)、歩兵第14連隊長心得として西南戦争に参加した。

 乃木は1886年(明治19年)、川上操六らとともにドイツに留学。1894年(明治27年)、陸軍少将として「日清戦争」に出征。旅順要塞を一日で陥落させた包囲に加わった。1895年(明治28年)、陸軍中将として「台湾征討」に参加。1896年(明治29年)、台湾総督に就任。1898年(明治31年)、台湾統治失政の責任を取って台湾総督を辞職。

1904年(明治37年)、休職中の身だったが、「日露戦争」の開戦に伴い、第三軍司令官(大将)として旅順攻撃を指揮した。様々な史料によると、少なくともこの戦いにおける乃木はどうしようもない凡将だったといわざるを得ない。児玉源太郎の作戦てこ入れがなければ、“無為無策”の乃木大将の指揮のせいで、なお何十万人もの兵士の尊い生命が奪われていただろう。児玉の活躍で乃木は救われたのだ。その代わりといっては語弊があろうが、乃木の2児の勝典、保典が戦死した。

1907年(明治40年)、乃木は学習院院長として皇族子弟の教育に従事。昭和天皇も厳しく躾けられたという。1912年(大正元年)、明治天皇大葬の9月13日の夜、妻静子とともに自刃した。明治天皇の後を追った乃木夫妻の殉死は当時の国民に多大な衝撃を与えた。

 乃木は若い頃は放蕩の限りを尽くしたが、ドイツ留学した際、質実剛健なプロシア軍人に感化され、帰国後は古武士のような生活を旨とするようになったという。彼は省部経験・政治経験がほとんどなく、軍人としての生涯の多くを司令官として過ごした。

 乃木には武将に似合わないほど詩や歌の心があり、広く世に流布するほど多くの漢詩を残した。それは彼が16歳のころ、吉田松陰を育てた萩の玉木文之進を訪ね、学問の師として教えを請うたためだ。玉木のもとで乃木は、鎌や鋤を手にとり、肥桶を担がされるなど百姓仕事をしながら修業。こうした玉木の教育があったからこそ、乃木は文学で身を立てた方が良かったのではないか、との評価を受けるほどの作品を残せたのではないか。

(参考資料)司馬遼太郎「殉死」、司馬遼太郎「街道を行く」、古川薫「天辺の椅子」、奈良本辰也「男たちの明治維新」

支倉常長 歴史上果たした偉業とは裏腹に禁教下の日本に帰国後は冷遇

 1613年(慶長18年)、仙台藩主・伊達政宗は、家臣の支倉常長をヌエバ・エスパニア(現在のメキシコ)との直接通商交渉を目的とし、メキシコ経由で、スペインおよびローマへ派遣した。一行は日本人とスペイン人合わせて180人余り。この偉大な業績は「慶長遣欧使節」の名称で知られ、「天正遣欧少年使節」と並んで、日本の対外交渉史ならびにカトリック史上の画期的な事績として扱われる。

しかし、その遣欧使節の実態については、とくにこの副使を務めた支倉常長の帰国後の暮らしぶりとともに、あまり知られていない。出国直後から、不幸にも日本国内でのキリスト教に対する環境が急速に悪化したこともあって、常長の存在そのものが江戸時代の歴史から消えてしまうのだ。

 支倉常長は山口常成の子として生まれた。幼名は与一。初名は六右衛門長経。洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。常長は子供に恵まれなかった伯父支倉時正の養子となった。ところがその後、時正に実子・久成が生まれたため、伊達政宗の主命で家禄1200石を二分し600石取りとなった。

 1609年(慶長14年)、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)への帰途台風に遭い、上総国岩和田村(現在の御宿町)の海岸で座礁難破した。地元民に救助された一行に、徳川家康がウイリアム・アダムス(三浦鞍針)の建造したガレオン船を贈り、ヌエバ・エスパーニャへ送還した。このことをきっかけに、日本とエスパーニャ(スペイン)との交流が始まった。

 伊達政宗の命を受け、支倉常長はエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使に、自分は副使となり、遣欧使節として通商交渉を目的に180人余を引き連れ、スペインを経てローマへ赴くことになった。石巻で建造したガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で1613年(慶長18年)、月ノ浦を出帆。ヌエバ・エスパーニャ太平洋岸のアカプルコへ向かった。アカプルコから陸路大西洋岸のベラクルスに、ベラクルスから大西洋を渡り、エスパーニャ経由でローマに至った。常長はマドリードの修道女院の教会で洗礼を受けた。

ただ、当時はやむを得ない側面もあったが、この外交使節には大きな成果を得るには限界があった。それは外交文書の作成から外交交渉まですべてを使節一行の正使で通訳兼案内役を務めたルイス・ソテロに任せていた、他力本願型の外交姿勢にあった。伊達政宗は当時の海外事情に精通していなかった。また、常長ら派遣された一行も自らスペイン語やイタリア語を修得して独自の外交手腕を発揮しようという意欲を持たず、ソテロから指示されるまま行動しただけだった。
 そのため、一行は1615年(慶長20年)、エスパーニャ国王フェリペ3世に、そしてローマへ入り、ローマ教皇パウルス5世に謁見したが、スペインとの交渉は成功せず、1620年(元和6年)帰国した。
 伊達政宗の期待のもと出国した常長だったが、不幸にも出国直後から日本国内でのキリスト教に対する環境は急速に悪化した。常長の帰国後の扱いを危ぶむ内容の政宗の直筆の手紙が残されている。果たして政宗が危惧した通り、常長が帰国したとき日本はすでに禁教令が出されており、歴史上、彼が果たした偉業とは裏腹に、キリシタンの洗礼を受けた彼はひっそりと暮らしていたらしく、失意のうちに死んだ。というのも常長の前半生と晩年について、確実なことはほとんど分からないのだ。こうして常長は江戸時代の歴史から消えてしまう。

 不幸はまだ続く。1640年(寛永17年)、常長の息子の常頼は、召使がキリシタンだったことの責任を問われて処刑され、名門支倉家は断絶した。1668年(寛文8年)常頼の子の常信の代に、ようやく赦されて家名を再興することができた。仙台藩においては、主命により引き起こされた事態であるため忸怩(じくじ)たるものがあったようだ。

 時を経て、支倉常長の偉業が再び世に出る。それは明治維新後、岩倉具視が欧米視察団としてイタリアを訪れた際、「支倉」の署名が入った文書を発見したからだ。
 常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」は仙台市博物館に所蔵されており、2001年(平成13年)に国宝に指定されている。その中には常長の肖像画があり、日本人を描いた油絵としては最古のものとされる。

 この遣欧使節の名目上の目的は通商だったが、本当の目的は当時世界最強国だったエスパーニャ(スペイン)を味方につけ、天下を覆そうという壮大な政宗の計画が秘められていたという説もある。確固たる史料が残っているわけではないので、あくまでも推測の域を出ないのだが…。

(参考資料)大泉光一「支倉常長 訪欧の真実」、遠藤周作「侍」

土方歳三 新選組の副長から、戊辰戦争を転戦した徹底した実践派

 土方歳三は1868年(慶応4年)、下総(現在の千葉県)流山で近藤勇と別れた後、「戊辰戦争」を通して幕臣として官軍と戦い、鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、宇都宮城の戦い、会津戦争、箱館戦争を転戦。幕府側指揮官の一人として図抜けた軍才を発揮して、蝦夷共和国・陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取の要職にも就いている。

しかし、歳三の公式の剣の腕前は高くはなかったようだ。天然理心流道場では歳三は中極意目録までの記録しか現存していない。行商中に学んだ様々な流派のクセが取れなかったのか?ただ、型には一切とらわれず、縦横無尽に闘い、最後は相手を倒すという徹底した実践派で、まさに実戦では滅法強かったといわれている。そうした合理精神は近代戦術にも抵抗なく、柔軟に理解を示して実践させることにつながり、戊辰戦争でも成果を挙げている。歳三の生没年は1835(天保6)~1869年(明治2年)。

 土方歳三は武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)に10人兄弟の末っ子として生まれた。諱は義豊。雅号は豊玉。土方家は多摩に広がる豪農の家系で「お大尽(だいじん)」と呼ばれる大百姓だった。出生前に父、土方義諄(ぎじゅん)が亡くなり、6歳の時に母も失い、次兄の喜六夫妻に育てられた。14~24歳ごろまで奉公に出ていたといわれる。奉公先には松坂屋上野店の支店、江戸伝馬町の木綿問屋などが挙げられる。

 その後、歳三は実家秘伝の「石田散薬」(骨折・打ち身の秘伝薬)を行商しつつ、各地の道場で他流試合を重ね修業を積んだといわれる。日野の佐藤道場に出稽古にきていた天然理心流四代目の近藤勇(後の新選組局長)とはこのころ出会ったと推測され、歳三は1859年(安政6年)、天然理心流に正式入門した。

 1863年(文久3年)、歳三は近藤道場(試衛館)の仲間とともに、十四代将軍家茂警護のための浪士組に応募し、上洛する。同年8月18日の「八月十八日の政変」後、壬生浪士組の活躍が認められ「新選組」が発足。その後、新見錦切腹、芹沢鴨などを自らの手で暗殺。そして、権力を握った近藤勇が局長となった。歳三は副長の地位に就き、局長・近藤勇の右腕として京都治安警護維持にあたった。新選組は助勤、監察など職務ごとに系統的な組織づくりがなされ、頂点は局長だが、実際の指揮命令は副長の歳三から発せられたとされる。

 1864年(元治元年)の池田屋事件の際は半隊を率いて、長州・土佐藩士が頻繁に出入りしていた四国屋方面を探索して回ったが、こちらには誰もいなかった。そこですぐ池田屋の応援に駆け付けたが、直ちに突入せずに池田屋の周囲を固め、後から駆け付けた会津藩、桑名藩の兵を池田屋に入れず、新選組ただ一隊の手柄を守った。まだ立場の弱い新選組のことを考えての行動で、歳三らしい冷静な機転だ。このパフォーマンスの効果は絶大で、池田屋事件の恩賞は破格なものとなった。その結果、新選組の“勇名”は天下に轟いた。

 幕府からは近藤を与力上席、隊士を与力とする内示があったが、ここでも歳三は策を講じる。歳三は近藤を諌め、狙いは与力よりも大名と、次の機会を待つよう近藤を説得したといわれている。こうした一方、歳三は鉄の戒律「局中法度」をつくり、新選組内部では常に規律を隊士らに順守させ、規律を破った隊士に対しては切腹を命じており、隊士から恐れられていたという。そのため、新選組隊士の死亡原因の第一位は切腹だったといわれているほど。

(参考資料)司馬遼太郎「燃えよ剣」、鈴木亨「新選組99の謎」、三好徹「さらば新選組」

藤田東湖・・・幕末、尊皇志士たちから絶大な信頼と輿望を集めた傑物

 藤田東湖は水戸藩第九代藩主・徳川斉昭の側近を務め、その懐刀として活躍した。とくに水戸学の大家として著名で、幕末、全国の尊皇志士たちから絶大な信頼と輿望を一身に集め、彼らに大きな影響を与えた。

薩摩藩主・島津斉彬が水戸家を訪れた際、接待役を務めた藤田東湖に西郷の名を挙げ、「よろしく教導して引き立ててくれるように」と挨拶している。若き日の薩摩藩士、西郷隆盛も1854年(安政元年)、同志、樺山三円とともに東湖の元を訪れ、東湖の学識、胆力、人柄、態度に感銘を受けている。戸田忠太夫と水戸藩の双璧を成し、斉昭の腹心として「水戸の両田」、また武田耕雲斎を加えて「水戸の三田」とも称された。東湖の生没年は1806(文化3)~1855年(安政2年)。

 藤田東湖は常陸国東茨城郡水戸(現在の茨城県水戸市)城下の藤田家屋敷(水戸上町梅香)で、水戸学者(彰考館総裁)、藤田幽谷(ゆうこく)の次男として生まれた。母は町与力、沢氏の娘。名は彪(たけき)、字を斌卿(ひんけい)といい、虎之助、虎之介、誠之進の通称を持っていた。「東湖」は号で、生家の東に千波湖があったことに因む。ほかに梅庵という号も用いた。藤田家は遠祖が平安時代前期の政治家、小野篁に遡るといわれ、中世に常陸へ移り住んだといわれている。

 東湖は幼少の頃より、父で水戸学の儒臣、藤田幽谷から薫陶を受けて育ち、父の家塾「青藍舎(せいらんしゃ)」で儒学を修めるなど、学問に精進し、次第に藩内で頭角を現した。1827年(文政10年)家督を相続し、進物番200石となった後は、尊王思想「水戸学」藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編修、彰考館総裁代役などを歴任した。そして、当時、藤田派と対立していた立原派との和解に尽力するなど水戸学の大成者としての地位を確立した。

 1829年(文政12年)の第八代藩主・徳川斉脩(なりのぶ)の継嗣問題に際しては、徳川斉昭派に加わり、斉昭襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進。1840年(天保11年)には側用人として藩政改革にあたるなど藩主、斉昭の絶大な信頼を得るに至った。そして、その名は藩の内外に知れ渡るようになった。

その結果、水戸は維新の震源地だといわれ、全国の藩士・志士たちから絶大な信頼と輿望を一身に集める存在=藤田東湖がそのマグマとなった。各藩の志ある若者は江戸に出た際は、必ずといっていいほど、東湖の元を訪れ、薫陶を受けたといわれるほどだ。信州から佐久間象山、長州から吉田松陰、越前から橋本左内、熊本から横井小楠、薩摩から有村俊斎(海江田信義)、西郷隆盛など次々と訪ねてきた。そこで、単に東湖の怪気炎に圧倒されるだけでなく、訪ねてきた若者同士が議論した。そういう日本の若者たちの“場づくり”をした意味でも、東湖の果たした役割は大きい。

 ここまで順風満帆な人生を送ってきた東湖だったが、この後、思わぬ挫折を味わうことになる。1844年(弘化元年)、藩主・斉昭が隠居・謹慎処分を受けたのだ。これに伴い東湖も失脚し、その後、禄を剥奪された。さらに1846年(弘化3年)、斉昭が謹慎解除されると、東湖はそれまでの責めを受け、江戸屋敷に幽閉され、翌年謹慎処分となった。1850年(嘉永3年)、ようやく水戸に戻ることを許され、1852年(嘉永5年)やっと処分を解かれたのだ。

 約8年間にわたる、東湖自身の“冬”の時代から一転、大きく変わり始めた日本の世相・時代が、東湖を表舞台に引っ張り出す。1853年(嘉永6年)、ペリーが浦賀に来航し、徳川斉昭が海防参与として幕政に参画することになった。すると、東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになったのだ。そして、1854年(安政元年)には側用人に復帰している。舵取りの難しい激動の時代を迎え、これで水戸藩の体制も整ったかに見えた。

 ところが、そんな東湖を不慮の事故が襲う。1855年(安政2年)に発生した「安政の大地震」だ。関東地方を襲った、マグニチュード7とも伝えられるこの地震で、彼は母親を守り、脱出させるため、落下してきた梁(鴨居)の下敷きとなって圧死したのだ。あっけない最期だった。享年50。
 主な著書に『弘道館記述義』『回天詩史』『正気歌(せいきのうた)』『常陸帯(ひたちおび)』などがある。

(参考資料)童門冬二「私塾の研究」、童門冬二「明日は維新だ」、海音寺潮五郎「史伝 西郷隆盛」、小島直記「無冠の男」

藤原能信・・・摂関政治から院政への橋渡し役を演じた陰の実力者

 藤原能信(よしのぶ)といっても、一般にはあまり知られてはいない。彼は藤原摂関政治の生みの親、藤原道長の子だ。父の道長亡き後、王朝社会の陰の実力者となり、表舞台に出ることはなかった。だが、皮肉なことに彼自身は、そうした意識を持っていたのかどうかは分からないが、計らずも摂関政治から院政への橋渡し役を演じた人物だ。平安時代の政治史の節目を彩る藤原氏のキーパソン、藤原氏北家の礎を築いた藤原冬嗣、そして天皇の外戚として、まさに我が世を“謳歌”した道長の二人に比べると、彼の地位は大納言どまりで、随分見劣りする。しかし、この時代の真の主役は、藤原頼通や教通ではなく、間違いなく能信だった。

 藤原能信は藤原道長の四男、母は源明子。官位は権大納言で、春宮大夫を務めたが、頼通・教通らと比べると、随分地味なものだ。生没年は995(長徳元)~1065年(康平8年)。

 父・道長には主な夫人が2人いた。頼通・教通を産んだ源倫子(左大臣源雅信の娘)と、能信の母・源明子だ。倫子は道長の最初の妻であると同時に、当時の現職大臣の娘で、道長の出世の助けになったのに対し、明子の父高明は同じ左大臣でもすでに故人で、しかも「安和の変」で流罪になった人物だった。そのため、倫子の子供たちは嫡子扱いを受けて出世を遂げたのに対し、明子の子供たちはそれ以下の出世に限られていた。

そこで、能信の他の兄弟は頼通と協調して自己の出世を図ろうとした。ところが、能信はそれを拒絶し公然と頼通と口論して、父の怒りを買うことさえあった。こうした姿勢が結果的に出世の途を閉ざしたのか、能信は1021年(治安元年)、正二位権大納言昇進を最後に、その後は官位の昇進をみることはなかった。彼はあくまでも「ゴーイング・マイウエイ(わが道を行く)」の姿勢を貫き通した。もっといえば、彼は開き直って、異母兄弟との出世競争の不利は十分承知のうえで、大胆にも対立陣営に身を置いたのだ。

 1037年(長元10年)、後朱雀天皇の中宮(後に皇后)に禎子内親王(後の陽明門院)が決まると、その側近である中宮大夫に能信は任じられた。実はすでに実力者の頼通の養女、_子が天皇の新しい中宮として入内することが確定しているにもかかわらず、あえてその対立陣営のトップに立ったのだ。そして、彼は禎子内親王所生の尊仁親王(後の後三条天皇)の後見人を引き受けることになった。ここで彼は異常な粘り強さをみせる。1045年(寛徳2年)に後朱雀天皇が重体に陥ると、彼は天皇に懇願して、後を継ぐ後冷泉天皇(親王の異母兄)に対して「尊仁親王を皇太弟にするように」という遺言を得たのだ。

 しかし世間ではここに至っても、後冷泉天皇には頼通・教通兄弟がそれぞれ自分の娘を妃に入れており、男子が生まれれば皇太子は変更されるだろう-と噂していた。また、それだけに尊仁親王やその春宮大夫となった能信への周囲の眼は冷たいものがあり、現実に親王が成人しても妃の候補者が決まらなかった。有力貴族が実力者の頼通・教通兄弟の敵になることを恐れて、娘を妃に出すことを遠慮したためだ。そこで、今度は能信はやむを得ず、自分の養女(妻祉子の兄である藤原公成の娘)、藤原茂子を妃に入れ、「実父の官位が低すぎる」という糾弾を引き受けることで、辛うじて「皇太子妃不在」という異常事態を阻止したのだ。

 これほど献身的にサポートし、以後20年にわたり春宮大夫として尊仁親王の唯一の支持者であり続けた能信だが、悲しいことにその“果実”を自ら手にすることはできなかった。彼は、恐らく夢にまで見たであろう、親王の即位を見ることもなく、しかも右大臣・藤原頼宗(能信の同母兄)の急死で後任大臣への道が開かれたにもかかわらず、その6日後にその生涯を閉じてしまうのだ。

 だが、その3年後に後冷泉天皇が男子を遺さずに死去すると、尊仁親王が後三条天皇として即位、続いて茂子の息子の白河天皇が即位した。亡き能信の悲願が達成されたわけだ。そして、後三条天皇は能信の養子で、養父の死後に春宮大夫を継いだ藤原能長(実父は頼宗)を内大臣に抜擢した。また白河天皇は能信に太政大臣の官を遺贈、必ず「大夫殿」と呼んで、生涯尊敬の念を忘れることはなかったと伝えられている。まさに、能信の長年にわたる労苦が報われたのだ。

 能信に果たして摂政関白への野心があったか否か、定かではない。だが、後三条・白河天皇による政治とその後の「院政」の開始は、能信の人生に暗い影を落としてきた摂関家による摂関政治を終焉に導いたことは確かだ。

(参考資料)永井路子「望みしは何ぞ」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

北条時頼・・・策謀も駆使し他氏族を屠り、北条執権家の安定強化図る

 北条時頼は鎌倉幕府の第五代目執権だ。能楽『鉢の木』に登場する時頼は、花も実もある、立派な為政者に仕立て上げられている。それは温和で最も実直なイメージの三代泰時に重なる。だが、実態は陰の主役となって、血なまぐさい陰謀の数々をやってのけ、執権家としての北条氏の基礎を初めて確立した二代義時の姿に近い人物だった。つまり、時頼こそ北條氏の“執権らしい執権”だったのだ。

 北条時頼は、北条時氏を父とし、安達景盛の娘(後の松下禅尼)を母として生まれた。幼名は戒寿丸、通称は五郎。11歳のとき祖父泰時の邸で元服。烏帽子親は当時、鎌倉府の首長だった摂_将軍、藤原(九条)頼経(よりつね)だ。1243年(寛元元年)、左近将監に任ぜられ従五位下に進んだが、1245年(寛元3年)、四代目執権北条経時と図って、時頼は27歳の将軍頼経を辞任させ、子の頼嗣を新将軍の座に据えてしまった。頼経の年齢が、ロボットとして操りにくい段階にまで達したからだった。この交替からまもなく、経時が病死したため、執権職は弟の時頼に回ってきた。

 経時の死が、23歳という若死にのせいもあり、不可解な部分もある。権位への野望のために時頼が兄を殺したのではないかとの疑問だ。何故なら、兄を立てるなら経時の遺児たちが幼少の間、一時政権を預かったにせよ、成長後はこれを返上してやるはずなのだ。しかし、経時の子供たちはいずれも出家し、経時の系統はそのまま絶えてしまっている。そして、この後、代々得宗として一族の上に君臨したのは時頼の子孫なのだ。それだけに、黒い噂がより真実味を帯びてくる。

 しかし、五代目執権職に就いた20歳の時頼はしたたかだった。時頼の強引なやり口に疑惑と反感の目を向ける者には、一門であっても、反対に彼らを挑発し、機先を制して屠ってしまう。三浦一族に対してもそうだった。

 三浦氏は、幕府の創業時代から目覚しい武威を持ちながら常に北条氏の走狗となって裏切り、煽動、離間など血みどろ仕事の先棒担ぎ、他族の蹴落としに一役買ってきたため、北条側の弱味も握っており、時政(初代)や義時(二代目)、泰時(三代目)にさえ一目置かせていた存在だったのだ。当然、時頼にとっても目の上の瘤(こぶ)だった。そこで彼は謀略の限りを尽くして三浦氏を挑発し、虚をついて、これを滅亡させた。こうして彼は北条執権家の基盤の、より一層の安定強化を図ったのだ。

 時頼は30歳で出家し、嫡男の時宗が幼弱だったため一時、執権職を一門の長時に譲ったが、なお最高指導者としての活動はやめず、自宅で秘密会議を開き、重要政務を決定した。時頼は37歳で亡くなったが、やり遂げた仕事の量は、彼が生きた歳月の量をはるかに上回っていたといえる。
 六代目長時のあとは泰時の弟で当時、長老的な立場にあった政村が担当、時宗を連署(副執権)とし、その成長を待って八代目を時宗に譲った。

 130年、十六代にわたって執権職を務めた北条氏。これほど長きにわたって権力を保持するにはどすぐろい、権謀術策の限りを尽くし、さぞかし人間的に“欲望の塊”と化した人物が揃っていたのだろうと思いたくなるところだ。だが、違うのだ。確かに、得宗と呼ばれている宗家嫡流の権力保持には、後世の人々に陰険な氏族として毛嫌いされているにもかかわらず、一人ひとりの生き方は、権位にありながら珍しいほど清潔だった。藤原道長、平家の公達、足利将軍義満、義政、豊臣秀吉、徳川家斉ら数多い。ところが、北条執権職を務めた人物のうち、権力に伴う富を、個人の栄華や耽美生活の追求に浪費した者は、十四代の高時を除いてほとんど見当たらない。

(参考資料)杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

保科正之・・・名君と誉れ高い会津藩藩祖だが、評価は“割引”が必要

 会津藩藩祖の保科正之は、徳川二代将軍秀忠の隠し子という血筋の確かさから、また三代将軍家光の死に際して、四代将軍家綱の後見役を仰せつかり、理想的な名君と誉れ高い存在だが、果たしてどうか?生没年は1611~1672年。

 会津藩主としての保科正之の評判はいい。これは、高遠藩3万石から山形藩20万石という破格の加増によって、家臣の給与を3倍から4倍に上げたからだ。戦いで命を張ったわけでも、民政で功労があったのでもないのに、禄高がこれだけ上がれば、藩士や領民が“名君”と感謝感激しても当たり前だ。さらに、会津に23万石で転封されたときも、2割から3割もの加増が一律に行われている。

 飢饉対策として、正之が儒学者・山崎闇斎の助言で古代中国に倣って社倉(米や麦を貯蓄する倉)制度を推進したのはそれなりに成功したが、これも手放しで評価できない部分がある。というのは、これは一種の強制預金で、運用の仕方では租税に上乗せした収奪になりかねないからだ。また、90歳以上の高齢者に生活費を与えたのはすばらしい高齢者対策で、「国民年金の創設」などというのも、ちょっと的外れの評価といわざるを得ない。当時の90歳以上など現在の100歳以上より少なかったはずで、そのような全く例外的扱いをもって福祉対策が充実していたなどと表現することはおかしい。

 幕政の担当者としての事績をみると、「殉死の禁止」「大名証人制の廃止」「末期養子の許可」が四代将軍家綱のもとでの三大美事とされ、正之の功績とされている。殉死は戦場で功を立てることが難しくなったこの頃になって急に流行りだしたものだ。殉死者は家康にはいなかったし、秀忠にも一人だけだった。ところが、家光の死に際して5人になった。そこで、この愚劣な流行を抑制すべきというのは当たり前の考え方だ。

大名証人制の廃止は、主要35藩の家老嫡子の江戸在住だけが廃止されたのであって、決して大名家族の人質政策が廃止になったのではない。末期養子の許可は、嫡男がいないだけでお家取り潰しするのは、もともと厳しすぎる、極端な政策だったから緩和は妥当だ。ただこの廃止により、できの悪い大名を残すことになった。そして石高の固定化は、大名についても一般の武士や庶民についても、有為な人材にとってチャンスが少なくなることを意味した。

まだある。明暦の大火(1657)の後、蔵金が底を尽くという批判をものともせず、罹災者に救援金を与えたことや、江戸の大々的な都市改造を行ったことも美談とされる。しかし、その結果、家光時代に金銀だけで400万両から500万両、物価水準を考えると、およそいまの1兆円の蓄えがあったのを、ほぼ使い果たしてしまった。単なるばらまきで財政を破綻させたのだ。

刑罰の軽減化などに具体化された独特の「性善説」に基づく正之の哲学は、ユニークで魅力があり、江戸時代の名君の原型に挙げる人が少なくない。ただ、あるべき指導者の姿としての「名君」としては、かなり割り引いて考えざるを得ない。カネと権力あればこその「名君」だったといえるのではないか。

(参考資料)八幡和郎「江戸三百藩 バカ殿と名君」、司馬遼太郎「街道をゆく33」

前田利家・・・壮語せず篤実な姿勢が好感され、大藩の基礎作りに貢献

 加賀藩の藩祖・前田利家は織田信長、豊臣秀吉に仕え、徳川の世に、全国で最大の120万石を領有する大藩の基礎をつくった人物だ。加賀藩の華麗さは今日もよく知られている。100万石以上もの大名第一等の大封を持ちながら、幕府への遠慮から、殊更に武の印象を抑え、学問と美術工芸を奨励した。このため藩都の金沢は、小京都といっていいほどに優美だった。

 前田利家は、尾張愛智郡荒子村で土豪の前田縫殿助(ぬいのすけ)利春(利昌ともいう)の四男として生まれた。幼名は犬千代。通称は又左衛門、又左、又四郎、孫四郎、越中少将。渾名は槍の又左衛門、槍の又左。利家の生没年は1537(天文6)~1599年(慶長4年)。

 利家が生まれたのは、まさに戦国時代の真っ只中だ。このとき武田信玄18歳、上杉謙信9歳、織田信長5歳、そして徳川家康は4年後に生まれている。天下平定の覇気に燃える武将の中で尾張一円を勢力下に置き、まず頭角を現すのが織田信長だが、この信長の配下に属し、その勢力圏内で、荒子一帯を領していたのが前田利春だった。

 若い頃の利家は負けん気でやんちゃ、ことに信長に仕え始めたころは“かぶき者”で、周囲のひんしゅくを買う青年だった。こうした若い頃の無軌道ぶりや挫折が、中年以後の利家の器の大きさをもたらしたといえよう。利家は信長の父・信秀の死後、起こった「尾張海津の戦い」が信長配下としての初陣だ。この戦いで活躍した後、信長の伯父・津田孫三郎信家を烏帽子親として元服。犬千代から孫四郎利家と名乗ることになった。その後、1556年(弘治2年)、「尾張稲生(いのう)の合戦」に参戦。この戦いは、信長の弟・信行を擁した林美作守の反乱だったが、ここでも戦功を挙げ、利家は100貫の加増を受け150貫(石高にすると357石)の禄高となった。またこの合戦の後、利家の上手なとりなしで柴田勝家が信長の配下となった。

 ところで、利家はその生涯で二度、大きな挫折を味わっている。最初の挫折は1559年(永禄2年)、信長の同朋衆・拾阿弥を斬り、信長の勘気に触れ追放されたのだ。この後、変転目まぐるしい戦国の最中、2年もの間、主を持たない浪々の時期を過ごしている。そして「美濃森部の戦い」の功により晴れて帰参。「赤母衣(あかほろ)衆」に取り立てられ、300貫加増された。赤母衣衆とは指揮班の将校にあたる。

 1582年、主君・織田信長が京都・本能寺で明智光秀に討たれると、利家は初め柴田勝家に付くが、後に秀吉に臣従。豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、秀吉より加賀・越中を与えられ、加賀百万石の礎を築いた。1598年(慶長3年)には秀吉から徳川家康と並び、豊臣政権の五大老の一人に、また秀頼の傅役(後見人)に任じられた。秀吉がいま少し長寿であれば、まだ平穏な時が続くはずだった。

 ところが、同じ1598年(慶長3年)、五大老・五奉行など豊臣政権の行く末を定めた数カ月後、その要の秀吉が亡くなると時の流れは一気に加速。徳川家康に付く福島正則らの武断派と、石田三成らの文治派の対立が顕在化、事態は激しさを増していく。この争いに利家は加わらず、仲裁役として懸命に働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力する。
しかし、利家には傅役を全うする時間はもう残されてはいなかった。秀吉の死後、わずか8カ月後、病没した。

俗に“加賀百万石”と呼ばれ、大名のトップとしての権勢を誇った前田家は、菅原道真の後裔ということになっている。この菅原道真と戦国大名の前田と、どこに接点があるかといえば、配流された筑紫(九州)で生まれた子供の一人が前田氏の先祖となり、その一族が尾張愛智郡荒子村(現在の名古屋市中川区荒子町)に住みつき、前田姓を名乗ったという。

さらに、前田家にとって運が良かったことは利家が「関ケ原の戦い」(1600年)の前年に亡くなったことだ。前田家として、豊臣恩顧は利家までで、子の代になると、その点が身軽になった。秀吉の死後、豊臣家は石田三成派と徳川家康派に分裂したが、前田家はこの内紛に直に引き込まれずに済んだ。

 家禄を含め前田家を守るに際しては、利家の未亡人、芳春院(まつ)の果たした役割が大きい。頑固であまり融通の利かない利家とは違い、なかなかな政略家だった。彼女は若い頃からの友達だった秀吉の未亡人、高台院(北政所=ねね)と語り合い、徳川家康方に加担。お家取り潰しや改易を狙う徳川方からの挑発には一切乗らず、前田家(利家の晩年の石高、83万5000石)を守るべく、彼女は自ら江戸へ赴き、人質になった。徳川方にとっては想定外の離れ業だったに違いない。

(参考資料)酒井美意子「加賀百万石物語」、司馬遼太郎「街道をゆく37」、司馬遼太郎「豊臣家の人々」