regrets のすべての投稿

江川太郎左衛門・・・ 韮山塾で西洋砲術を教え、国防を考えた西洋流兵学家

 江川太郎左衛門は幕末、欧米先進国の強大な武力の前に危機を憂い、これに対抗すべく当時、先鋭的な反射炉を造った、“国防の巨人”といわれた西洋流兵学家だ。また、兵糧確保のため日本で初めて、保存の利く西洋のパンを焼いたことでも知られている。その製法は当時、江川邸にきていた砲術修行の若者たちを通じて全国に広まった。生没年は1801(享和元年)~1855年(安政2年)。

 江川太郎左衛門英毅の次男として生まれたが、兄が早逝したため、父の死後、1835年(天保6年)、伊豆韮山代官職を継いだ。初名は芳次郎、邦次郎、のち太郎左衛門。太郎左衛門の生まれた伊豆韮山の江川家は世襲の代官職で、代々の当主は、みな太郎左衛門と名乗った。ここに取り上げる太郎左衛門は、その三十六代目で、名を英龍、号を坦庵といった。

支配地は駿河、伊豆、相模、武蔵、甲斐の5カ国にわたり、管理する土地は約7万石に及んでいたという。また、海からの侵略を防ぐ重要な地点が多かった。そのため、英龍も早くから幕府に様々な提案を行って海の守りの重要性を説いていた。このため、蘭学を修めて渡辺崋山、高野長英らと近づき、外国事情にも深い関心を寄せていたのだ。

 後年、英龍は「韮山塾」を主宰したが、様々な著名な人物がこの塾で学んでいる。老中の阿倍正弘をはじめ真田幸貫、本多忠寛などの大名、旗本の松平近直、川路聖謨(かわじとしあきら)などがいわば名誉門人であり、佐久間象山、橋本左内、桂小五郎、斎藤弥九郎、後に大山巌、黒田清隆などがいる。英龍が教えたのは西洋砲術だ。英龍の師は、長崎の町年寄で、長崎奉行直轄の鉄砲方の仕事もしていた高島秋帆だった。高島はオランダから西洋の鉄砲を買い込んで、門人たちに西洋式の砲術や兵学を教えていた。

 1837年(天保8年)、1隻の国籍不明の外国船が江戸湾の奥深く侵入してきた。外国の船はすべて打ち払うという幕府の政策に則り、浦賀奉行がこれを砲撃して、追い帰してしまった。後で分かったことだが、これは日本人の漂流民を送ってきたアメリカの商船モリソン号だった。この事件に驚いた幕府は、外国の脅威に対する備えを固めるため、江戸湾一帯の調査、測量を行うことにした。1838年(天保9年)、この巡検隊に目付・鳥居耀蔵、代官・江川英龍が任命された。

 1839年(天保10年)、巡検隊は出発。測量船はまず浦賀の沿岸から始まり、房総半島に及んだ。鳥居耀蔵は部下の小笠原貢蔵に実際の仕事を任せた。小笠原はかつて蝦夷地の調査に従い、測量の助手を務めたことがあった。一方、英龍は尚歯会の指導者、渡辺崋山の推薦を受け、高野長英の弟子、内田弥太郎と奥村喜三郎をメンバーに加えた。調査は終わった。「蛮社の獄」の2カ月前だ。

 英龍はかねてから、外国事情の調査を渡辺崋山に依頼していた。崋山は諸国建地草図や西洋事情書を書き送ってこれに答えた。英龍はこれらを参考にして江戸湾の海防計画を立案し、でき上がった測量図に添えて幕府に提出した。鳥居耀蔵もまた報告した。ところが、鳥居の使った小笠原貢蔵が旧式の測量術でやった地図と、西洋式の新知識でやった英龍のものとではできばえが全然違ってしまって、鳥居は大恥をかいてしまう。このときの鳥居の個人的な遺恨が、あの「蛮社の獄」という洋学者への大弾圧に発展することになった。

 江川英龍は1840年(天保11年)、鳥居耀蔵らの反対する、高島秋帆の兵制改革を支持。高島秋帆に兵学・砲術を学び、許しを得て韮山に反射炉を築き、鉄製大砲を鋳造。1841年(天保12年)、洋式鉄砲方、1853年(嘉永6年)、ペリー来航のとき、海防掛となる。先に鳥居耀蔵の執拗な報復によって「蛮社の獄」に連座させられ、幽囚となっていた高島秋帆の赦免を願い自分の属吏とし、中浜万次郎も招いて属吏とした。江戸湾防備を献策し、品川砲台建設を監督した。

 勝海舟が幕臣でありながら幕府を突き抜けて、日本の国というものに考えが及んでいたのと同様、英龍も幕府保守派を退けて、「国防」を考えていたのだ。ただ、残念なことに品川の砲台も反射炉も、まだその完成を見ないまま、英龍は亡くなった。明治維新までのカウントダウンが始まっていた。

(参考資料)高橋_一・榛葉英治「日本史探訪/開国か攘夷か」、童門冬二「私塾の研究」

大鳥圭介・・・適塾出身ながら佐幕の道を突っ走り、戊辰戦争を転戦

 人の運命を決定づける要因の一つとして出身地を挙げるなら、大鳥圭介の場合、まさにその典型といっていいのではないだろうか。分かりやすい例を挙げると、大鳥圭介は適塾の先輩、大村益次郎と同じく村医者の子だった。蘭医方を学ぶうちに西洋兵学へ転じたという経歴も共通している。ところが、時勢はその後の両者の進路を正反対のものとし、幕末の政局が決定的な段階を迎えたとき、益次郎が倒幕派の軍事指揮官の地位にあったのに対し、圭介は歩兵奉行として幕府陸軍の要衝を占めていた。

両者の運命がこれだけ分かれたのは、出身地の違いを主要因の一つに挙げていい。圭介がもし倒幕派雄藩の出身だったら、益次郎と倒幕作戦を主導していたかも知れない。だが、現実の圭介は幕府の登用を受けると、中央政権の備える圧倒的な吸引力に巻き込まれ、佐幕の道を突っ走った。生没年は1832(天保3年)~1911年(明治44年)

 大鳥圭介は播州赤穂の北方、岩木七カ村のうちの一番奥の細念(さいねん)村、村医者大島直輔の長男として生まれた。幼少時の圭介は、初め祖父純平にについて四書の素読などを受けていたが、1845年(弘化2年)、細念村に隣接する岡山藩の名君池田光政が創設した閑谷(しずたに)学校に入学。圭介はここで足掛け5年間勉学に努めた。授業の内容は漢籍で朱子学だった。成績も良く、父親からは跡継ぎとして医業の勉強をせよとせきたてられた。そんなとき、父と懇意の町医者中島意庵から、蘭学こそこれからの時代に必要とされる学問だと教えられ、一大決心する。

こうして勇躍、圭介は大坂に向かった。1852年(嘉永5年)のことだ。この年、適塾には圭介を含めて34名が入塾している。住み込みの内塾生は60名に近かった。同年、橋本左内が退塾しており、圭介の入門はそれと入れ替わりといった形だ。塾頭は伊藤慎蔵だった。適塾で2年、原書を読みふけって語学は上達したものの、肝心の医業の方は全くおろそかにしていて、家業を継ぐなどとてもおぼつかない状況だった。

そこで、圭介は1854年(安政元年)、親には無断で適塾を退き、江戸へ出た。あてなどない、若さに任せたずいぶん乱暴な江戸行きだった。そして、浜松町の坪井忠益塾に入門した。坪井忠益は元の姓を大木といい、師事した坪井信道に見込まれてその養子となった人物だ。かつて緒方洪庵もその下で学んだことがあった。そうした縁で圭介は入門するとすぐ、塾頭に挙げられた。適塾のレベルがそれほど高かったのだ。
 当時は欧米列強の開国要請を受けて、軍備を洋式に改めるべく、坪井塾にも洋式兵備に関する調査依頼が、諸藩江戸屋敷からたびたび持ち込まれるようになった。その場合、適塾で兵書に親しんでいた圭介の右に出る者はいなかったから、それらの調査以来を取り仕切ったのは塾長の圭介だった。こうして西洋兵学に深入りするにつれ、圭介の医学に対する関心は急速に薄れていった。圭介の内部において、医学から兵学への転身が決定的となったのは、江戸に出て3度目の春が過ぎた1857年(安政4年)のことだった。

 この年、圭介は西洋兵学の分野で先覚的な役割を果たした江川太郎左衛門が開いた「江川塾」から、西洋兵学の教授に就任してほしいとの招聘を受けた。このことで圭介は自信を得て、これからの人生は医者ではなく西洋兵学者として生きることを決心する。彼は江川塾が用意した長屋に移り住み、講義のかたわら、自らも砲術などの学習に勤しんだ。圭介の講義を受けていた人々の中には後年、薩閥の有力者となる黒田清隆や大山巖らの顔も見えていた。いまや新進の西洋兵学者として圭介の名は高まるばかりだった。

 1866年(慶応2年)、遂に幕府から開成所の洋学教授として召し出された。圭介34歳のことだ。それからまもなく、幕府内開明派の小栗上野介らの発議に基づき、幕府陸軍にフランス式操練を施すことが決まり、圭介は募集に応じて集まった1000人ほどの一隊を機動力ある精兵に鍛えあげた。これがいわゆる伝習隊だ。

 時勢は急テンポの展開をみせ、慶応4年、鳥羽伏見の戦いが勃発。この後、幕府の大勢が恭順に傾き、佐幕派諸藩ないし親幕府派諸藩が新政府軍と対峙。各地で戊辰戦争に敗れ、函館・五稜郭戦争に至る。圭介は江戸を脱出、旧幕府艦隊の総帥榎本武揚らと合流。北海道に渡り、「蝦夷共和国」の陸軍奉行に就任したが、6カ月後あえなくその幕を閉じた。

 圭介は2年有余、獄舎にあったが、明治5年罪を解かれ、開拓使御用掛として明治政府に出仕。以後、学習院校長、朝鮮公使、枢密院顧問官などを歴任した。

(参考資料)百瀬明治「『適塾』の研究」

江藤新平・・・ 新国家の骨格・近代司法体制づくりに大きな役割果たす

 江藤新平は1874年(明治7年)、西日本で起こった不平士族の反乱の一つ、「佐賀の乱」の首領として不本意にも斬罪されたが、彼がわが国の近代司法体制づくりに果たした役割は大きい。江藤の先見性と理論性は黎明期にあった新政府にとって必要欠くべからざる才能であり、明治初期の混乱期にあたり、とくにその才能は新国家の骨格づくりや民法、憲法など法令の整備に遺憾なく発揮された。生没年は1834(天保5年)~1874年(明治7年)。

 江藤新平は佐賀藩下級武士、江藤助右衛門の長男として生まれた。名は胤雄(たねお)、号は南白(なんぱく)。16歳で藩校弘道館に入学して猛烈に勉強に励んだ。副島種臣の兄で尊王攘夷論を唱道していた国学者、枝吉神陽(えだよししんよう)に師事。神陽が結成した「義祭同盟」に大隈重信(後に内閣総理大臣を2回歴任、早稲田大学創設者)、副島種臣(後に外務卿)、大木喬任(後に初代文部卿、第2代司法卿)らとともに参加した。

その後、時勢の変遷を的確に見据えた江藤は開国通商による富国強兵を主張するに至り、23歳のときに作成した意見書「図海策」では、民衆生活の尊重を立論の根拠とした意見を理路整然と展開した。その後、時局が混乱を極める中、1862年(文久2年)脱藩して京に上り、桂小五郎や伊藤博文、公卿姉小路公知、三条実美(さねとみ)らと交わり、積極的に京都の情勢視察を行い「京都見聞」を著した。28歳のときのことだ。しかし、結局帰藩を命ぜられ、永蟄居に処せられた。

ところが、江藤は幸運にも1867年(慶応3年)、大政奉還を機に直ちに赦免されて郡目付となり、明治政府に登用された。戊辰戦争では東征軍に軍艦として従軍した。江戸遷都を強く主張した。その後は江戸府判事、江戸鎮台判事として民政兼会計営繕の任にあたり、1871年(明治4年)文部大輔、次いで左院副議長の座を手に入れた。岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らの信任を得た結果だった。ここで、江藤新平のその後の進路を決定づける業務に就く。

 江藤はフランス流の民法典編纂に従事、1872年(明治5年)現行の法務大臣・最高裁長官・国家公安委員長に相当する権限を持つ初代司法卿に就任。行政から独立した全国統一の司法権を構築。また警察制度の統一に尽力、「改定律例」(明治初年のころの刑法典)の制定を実現した。以後、江藤は司法制度を整備するとともに、司法権の自立と法治主義確立のため奔走した。

だが、江藤は1873年(明治6年)その任を解かれ、参議に任ぜられ、新政府の中心で働くことになった。そして西郷隆盛、板垣退助らとともに征韓論を主張して敗れ、下野した。1874年(明治7年)、「民撰議院設立建白書」には板垣退助、副島種臣らとともに署名している。

 江藤は副島、後藤象二郎らの帰郷を思いとどまるようにとの説得にもかかわらず離京。ほどなく佐賀へ向かい憂国党の島義勇と会談し、佐賀征韓党首領として擁立された。数日後、憂国党が武装蜂起し、士族の反乱「佐賀の乱」が勃発する。しかし、やがて大久保利通が直卒する東京、大阪の鎮台部隊が続々と九州に到着し、佐賀軍は敗走に次ぐ、敗走を重ねる。

 江藤は密かに戦場を脱出し、征韓論で同様に下野した同志、鹿児島・鰻温泉に湯治中の西郷に会い、薩摩の旗揚げを請うが断られ、次いで高知の林有造、片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くが、いずれも容れられなかった。このため、江藤は最後の手段として岩倉具視への直接意見書陳述を企図して、東京への上京を試みる。

しかし、その途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され、佐賀へ送還された。手配写真が出回っていたために速やかに捕えられたものだが、この写真手配制度は江藤自身が1872年(明治5年)に確立したもので、皮肉にも制定者本人が被適用者第1号となった。
数日後、江藤は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下だった河野敏鎌によって裁かれ、数日後処刑、梟首された。梟首された際の写真は全国の県庁に掲示された。これは、司法卿としての江藤が禁じたはずの刑罰だった。その後、江藤系の人物はことごとく司法省を追われた。

 江藤新平は「人民の権利を守り、弱き民のために改革する」精神をもって近代的な法体系の導入や、地代、家賃の値下げ、問屋仲買の独占の廃止など民衆の要求を反映した近代化政策を推進した。こうした考え方のもとに、彼は身内の西南雄藩の出身政治家・官僚たちにも厳しくメスを入れた。山県有朋、井上馨の二人の汚職事件を糾明、彼らを辞職に追い込んだのも彼だ。裏表のない彼の性格が“裏目”に出た。新政府の中には汚職に狎れた官僚も少なくなかったから、厳しすぎる江藤のやり方が反感を招いた部分もあったに違いない。

(参考資料)司馬遼太郎「歳月」

大原幽学・・・農村改革運動を指導したが、幕府から嫌疑受け失意の自殺

 大原幽学は天保・嘉永・安政期の混乱した世相の中、下総国香取郡長部村(現在の千葉県旭市)を拠点に、房総の各地をはじめ信州上田などで農民の教化と農村改革運動を指導し、大きな事績を挙げた人物だ。1838年、世界で初めて「先祖株組合」という農業協同組合を創設したほか、道徳と経済の調和を基本とした性楽(せいがく)を説き、農民や医師、商家の経営を実践、指導した。

しかし、急激な性学運動の発展と、農民が一村を越えて労働と学習を共にしたことが、幕府の怪しむところとなり、不幸にも幽学は幕府の取り調べを受けた末、理不尽にも有罪となり、失意のうちに自殺、62歳の生涯を閉じた。幽学の生没年は1797(寛政9)~1858年(安政5年)。

 大原幽学の出自は定かではない。ただ、武士階級の出身だったことは間違いないとみられ、尾張藩の重臣、大道寺直方の次男として生まれたとの説もある。18歳のとき、故あって勘当され、関西・四国を長く放浪していたという。1831年(天保2年)、房総を訪れ「性学」という、儒学を基礎とする独自の実践道徳を講ずるようになり、門人を各地に増やしていった。

性学とは、欲に負けず、人間の本性に従って生きる道を見つけ出そうとする学問のこと。門人は道友(どういう)と呼ばれ、長部村に招かれ腰を落ち着けた幽学は、性学道友の農民を指導。農村の再興を図り、農民が協力し合って自活できるように、各種の実践仕法を行って成果を挙げた。

 農村の立て直しおよび組織化に貢献したのが「先祖株組合」だ。これは、今日の信用組合のようなものの前身と考えていいものだが、しかしその根本的な考え方は家族制度を維持するための預金とその運用にあった。そして、さらにいえば、それは家を中心にしているだけに、団結の強いものだった。これに集まる人々は、次のような誓約を交わしていた。

<連中誓約之事>
一.博打
一.不義密通
一.賭 諸勝負
一.職業二種
一.女郎買
一.強慾
一.謀計
一.大酒
一.訴訟発頭
一.狂言或は手躍、浄瑠璃、長唄、三味線之類、人の心の浮かるる所作

 かくの如く誓約致すの上は、私共若し右体無道の行ひ仕る事之れあるに於ては、何程厳敷(きびしく)御誡(おいさめ)下され候とも、御受け申し、急度相慎み申すべく候、万一其の御誡を相背(そむ)くに於ては、道友衆中より破門なされ候共、聊(いささ)かも御怨み申すまじく候
-というのだ。このような誓約を持っている組合は強い。

 幽学は「先祖株組合」の創設のほかに農業技術の指導、耕地管理、質素倹約の奨励、博打の禁止など農民生活のあらゆる面を指導した。「改心楼」という教導所も建設された。1848年(嘉永元年)、長部村の領主清水氏は長部村の復興を賞賛し、領内の村々の模範とすべきことを触れている。

 しかし、門人の急増、教導所「改心楼」の建設などが「関東取締出役」の嫌疑を受け、不幸なことに幽学は幕府評定所の取り調べを受けることになる。評定所の役人たちはなかなか判断が下せず、幽学の罪を断ずるのに7年余りもの歳月を費やしてしまった。

その結果、1857年(安政4年)、幕府の判決が下り、理不尽にも彼は「百日押込(おしこめ)」の刑を申し渡され、江戸にて謹慎の身となる。改心楼は取り壊し、先祖株組合の解散も決まった。翌年、刑期を終えて長部村に帰村した幽学は、失意のうちに村の共同墓地で、古式の通りに腹を切って喉を突き、見事な最期を遂げた。

 主な著作に「微味幽玄考」「性学趣意」などがある。
(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、童門冬二「私塾の研究」

大江広元・・・中年になって下級貴族から鎌倉幕府の高級官吏職に転職

 中年になってからの転職にはかなり勇気がいる。新しい職場が設立間もないところであればなおさらだ。平安時代末期から鎌倉時代初期、大江広元はこの転職を見事にやってのけた。広元は、初めは朝廷に仕える下級貴族だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府の政所・初代別当を務め、幕府創設に貢献したのだ。大江広元の生没年は1148(久安4)~1225年(嘉禄元年)。

 大江広元の出自は諸説あり、その詳細は分からない。『江氏家譜』では藤原光能の息子で母の再婚相手、中原広季のもとで養育されたという。しかし、『尊卑分脈』所収の「大江氏系図」には大江維光を実父、中原広季を養父とし、逆に『続群書類従』所収の「中原氏系図」では中原広季を実父、大江維光を養父としている。

 中原氏にしろ、大江氏にしろ、代々実務官僚を務める学問の家で、彼もかなり学識はあったとみられる。しかし、彼の生まれた平安末期は、現代と違って学歴はあまり役立たない世界だった。学歴よりも毛並み・家格-つまり、いい家柄の息子でなければ出世できないというしくみになっていた。いってみれば、広元は仕事はできる、頭もいい。官僚機構の裏表に通じていながら、行き止まりは見えているという感じの人生だった。

 ところが、1180年(治承4年)、一大変革が起こった。源頼朝が伊豆で旗揚げし、鎌倉に本拠を構えたのだ。以来、日本には公家政権と武家政権が重なり合って存在することになる。だが、このできたての鎌倉政権は荒くれの坂東武者ばかりで、行政、外交の能力は全く不足していた。そして、このときスカウトされて東国に下り、行政機関の責任者として迎えられたのが広元だったのだ。

 話は相前後するが、その経緯をみるとこうだ。広元の兄、中原親能は源頼朝と親しく、早くから京を離れて頼朝に従っている。1183年(寿永2年)、源義経の軍勢とともに上洛し、1184年(元暦元年)、再度入京して頼朝の代官として万事を奉行、貴族との交渉で活躍した。その兄、親能の縁で1184年に広元も頼朝の拠った鎌倉へ下り、公文所の別当となった。広元が36歳ごろのことだ。冒頭に述べた、中年官僚の転職がこれだ。

 さらに、頼朝が二品右大将となり、公文所を改めて政所としてからは、広元はその別当として主に朝廷との交渉にあたり、その他の分野にも実務家として広く関与した。彼はまさに鎌倉の“知恵袋”となったのだ。なにしろ長年の下積み生活で、京都の公家政権の弱味は知り尽くしている。勘どころの押さえ方には狂いがないのは当たり前だ。『吾妻鏡』の1185年(文治元年)の条(くだり)によると、頼朝が史上有名な「守護・地頭」を設置したのも大江広元の献策によるものだという。

 1199年(正治元年)の頼朝の死後は、北条義時や北条政子と協調して幕政に参与した。「承久の乱」(1221年)の際は、嫡男、大江親広が官軍についたため、親子相克する事態となった。武家の出なら割り切るところだが、下級貴族の出の親子だけに思い悩む場面だ。しかし、老境に入った広元に迷いはなかった。この戦いはある意味では、後鳥羽上皇と広元との戦いでもあったが、かつての中級官僚は、旧体制を向こうに回して堂々としていた。『吾妻鏡』は広元の対応を高く評価し伝えている。広元はあくまで鎌倉方に立って、主戦論を唱えた北条政子に協調。朝廷との一戦には慎重な御家人たちを鼓舞して、幕府軍を勝利に導いた功労者の一人と記している。

 大江広元は、朝廷の中級官僚から、相対する鎌倉幕府の征夷大将軍の側近への転職を見事にやってのけたのだ。

(参考資料)永井路子「にっぽん亭主五十人史」

沖田総司 ・・・激務の新選組・一番隊を率い、冷徹で惨殺者の顔も

沖田総司は天然理心流の近藤勇(後の新選組局長)が主宰する近藤道場・試衛館で剣技を磨き、10代で免許皆伝に達するほど、剣では天才的な人物だった。しかし、性格的には優しいイメージで語られることが多く、しかも労咳(結核)を患い、わずか20数歳という短い、幸薄い人生だったのではないかと考えられている。だが沖田には、新選組の一番隊を率いて活躍した男の冷徹で、斬殺者としての“顔”があったことも事実だ。果たして、沖田総司の実像とは?

沖田総司房良(おきたそうじかねよし)は、陸奥白河藩士、沖田勝次郎(足軽頭)の長男として武蔵国江戸(東京都)で生まれた。幼名は沖田惣次郎、藤原春政(ふじわらのしゅんせい)。容姿は背が高く、浅黒い方でヒラメ顔。少し猫背だったといわれているが、写真が残っていないので何ともいえない。声は細く、甲高かったといわれている。生没年は1842(天保13)~1868年(慶応4年)。ただ生年には天保15年説もあり、定かではない。

沖田は8、9歳のとき江戸市谷にあった、近藤周助(近藤勇の義父)が主宰する天然理心流の近藤道場・試衛館に内弟子として預けられた。剣の資質に恵まれていたのだろう、剣技は天才的で19歳のとき免許皆伝に達し、1861年(文久元年)には試衛館の塾頭を務めている。優しいイメージのある沖田だが、剣を教えるときは、人が変わったようにとても乱暴で、門弟たちからは近藤よりも恐れられていたという。

沖田の剣の得意技は「突き」で、彼が使う技は必ず「三段突き」だった。この三段突きの三本仕掛けが、一本にしか聞こえないほどの速さだったというのは有名な話だ。このことからも沖田が“無類の天才剣士”と呼ばれた一端がうかがわれる。
浪士組、新選組への参加は自分の意志だったのかどうか、近藤勇、土方歳三など試衛館のメンバーと行動をともにしたに過ぎないのか?はっきりしていることは、剣の師であった近藤勇を慕っていたことで、それが動機の一つだったことは間違いないだろう。新選組時代の沖田は副長助勤から一番隊長と撃剣師範を兼任。一番隊は常に重要な任務をこなし、剣豪ひしめく新選組の中でも一、二を争うほど多くの人を斬ったといわれる。

池田屋事件では討幕派数人を斬り伏せ活躍したものの、直後に肺結核により喀血して倒れたとされているが、その後も活躍していることから、このとき本当に肺結核を発症したのかどうか、確実なことは分からない。ただ、1867年(慶応3年)の終わり頃には病状が悪化、沖田が第一線で活躍することがなくなった。したがって、鳥羽・伏見の戦いには参加できず、鳥羽・伏見の敗戦後、隊士とともに海路江戸へ戻り、以後は新選組と親交のあった、幕府御典医を務めた松本良順により、千駄ヶ谷の植木屋に匿われ療養生活に入ったとされている。

1868年(慶応4年)、沖田は一カ月前の近藤勇の処刑を知らされぬまま、一人で逝った。というのは、周囲の者は近藤の死に関しては固く口止めされていたからだ。そのため、沖田は死ぬ間際まで師の近藤の安否を気遣っていたと伝えられている。
沖田は一般に新選組の副長、土方歳三とは兄弟のような関係だったかのように思われているが、これは司馬遼太郎、子母澤寛の創作(小説)によるところが大きく、現実は違う。

(参考資料)三好徹「沖田総司」、司馬遼太郎「燃えよ剣」

大久保長安・・・家康に“忠”ではなく“能力”で仕えたが死後、晒し首に

 大久保長安は自己の能力を信じて行動した合理主義者で、武田氏、徳川氏に仕え、一時は徳川家康のブレーンとなり、日本の金銀を次々と掘り出し、家康に膨大な富をもたらした。ところが、長安は家康に使い捨てられただけでなく、死後、死体に刑を加えられ、遺児7人は全員処刑され、財産も没収されるという憂き目に遭った。生没年は1545(天文14)~1613年(慶長18年)。

 大久保長安は、猿楽師の大蔵太夫十郎信安の次男として生まれた。長安の祖父は大和国春日神社で奉仕する猿楽(現在の能)金春流の猿楽師で、父の信安の時代に播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。ただ、長安の両親については不明な点が多く、一説には秦氏の子孫だったともいわれ、確かなことは分からない。

 長安は甲斐の武田信玄に仕えたが、それは猿楽師としてではなく、建築、採鉱、道路づくり、税務などの技術を一身に備えていたからだという。武田家が勝頼の代で滅亡後、長安は家康の家臣として仕えるようになった。当時は「忠臣は二君に仕えるものではない」という考え方が厳然としてあったが、長安は自分は能力で武田家に仕えていたので、決して忠などという感覚で仕えていたのではない。家康に対しても「知識」と「技術」でお仕えするのだ-と割り切っていた。

 長安は組織づくりの名手だった。その組織も目的ごとに適した人材を集め、目的が実現されると解体してしまうソフトなつくり方をした。現代でいうプロジェクトチームだ。家康から命ぜられた仕事を完成すると、彼は非情にもその組織を潰した。同時に彼もまた未練なく次の任地へとぶ。そしてそこでまた、新しいプロジェクトチームをつくるのだ。

 長安の様々な功績の中で、とりわけ家康を狂喜させたのは、彼が日本の各地から金や銀を掘り出して家康に献じたことだった。石見国(島根県)の銀山、伊豆の金・銀山、そして佐渡の金・銀山の発掘は有名だ。彼は鉱山を発見すると、すぐプロジェクトチームを組んだ。それも極力、牢人(浪人)を採用した。能力主義に徹した。彼の採掘法は、日本の旧来のたて穴掘りをよこ穴掘りに変え、鉱石の洗浄、蒸留の方法に特別な手法を施す、外国の宣教師から学んだアマルガム法を採用していた。

この新技法を駆使し、プロジェクトチームで仕事を進める長安は、どこに行っても仕事を楽しくした。チーム員の給与や待遇を破格なものにし、生活を豊かなものにするために諸国から各種商人を呼んだ。遊女屋も盛んにした。長安は生涯、一つの土地にしがみつかなかったし、精神面でもしがみつきを嫌った。彼にとって永遠とか絶対というものは存在しなかった。こんな生き方は特異なものだった。それだけに、組織型人間からは疎まれ、やがて排除されることになる。官僚組織は統制に服さないものを憎む。憎むだけでなく、潰しにかかる。

 ただ、なぜか長安は生きているうちは攻撃を受けず、死んだ後、大弾圧をうける。生前、長安が金山の統轄権を隠れ蓑に不正蓄財をしていたという嫌疑をかけられたのだ。その結果、長安の7人の男児は全員処刑され、親交のあった大名、旗本も連座して改易などの憂き目に遭った。長安に大久保の姓を与えた大久保忠隣(ただちか)らも失脚した。そして、処分はこれだけでは済まなかった。家康は埋葬されて半ば腐敗していた長安の遺体を掘り起こして、駿府城下の安倍川の川原で斬首して、晒し首にしているのだ。

 近年では、長安の不正蓄財疑惑は冤罪で、当時幕府内で権勢を誇っていた本多正信・正純父子の陰謀説とみるのが有力だ。

(参考資料)童門冬二「江戸管理社会 反骨者列伝」

荻原重秀・・・慶長金銀の改鋳で悪評生むが、経済通で日本初の財務官僚

 荻原重秀は出自こそ卑しかったが、大変な経済通で、恐らく日本で最初の政策官僚と呼ぶにふさわしい人物だった。とくに五代将軍徳川綱吉の後期に行われた通貨改革では、彼の発議と責任で「慶長金銀」の改鋳が行われ、後に悪評を生む原因となった半面、その高い見識と才能が遺憾なく発揮された。

 荻原重秀は荻原十助種重の二男で、父ももちろん勘定所の下役だった。重秀は1674年(延宝2年)、勘定所に出仕するようになり、150俵の給米をもらっている。1677年(延宝5年)、幕府は畿内一円の大検地を行うが、重秀はこの検地に派遣されて参加。また、1681年(天和元年)失政を問われて改易された、沼田城主真田信利の領地請取役として現地に出張している。こうした実績を積み重ねる中で、勘定方に荻原重秀ありという声は早くから高かったようだ。

 1695年(元禄8年)、幕府はそれまで通用していた「慶長金銀」を改鋳し、それに比べて金で約33%、銀で約20%品位の劣る「元禄金銀」を発行した。これは、荻原重秀の発議と責任で行われたものだが、この改鋳が後に重秀の悪評の原因となっている。というのも、この改鋳は重秀が銀座商人たちから賄賂をもらって行ったもので、幕府自身は出目(改鋳差益金)を稼いで、一時的に財政難をしのぐことができたが、庶民はそのために引き起こされた物価高に苦しんだ-といわれるからだ。実際のところはどうだったのか。

 本論に入る前に、理解を深めるために江戸時代の通貨制度を簡単にみておこう。江戸時代の基本通貨は金・銀・銭の三つだ。金は貴金属の金を主成分とした鋳造貨幣で、両・分・朱による四進法で計算されていた。銀は秤量(ひょうりょう)貨幣で、幕府の認可を得て銀座でつくった銀の塊を、秤で計ってそれを貨幣として使っていた。したがって、重さの単位の貫・匁が、貨幣としての銀の呼称単位に使われていた。銭は普通「寛永通宝」という名で知られている鋳造貨幣で、銅を主成分としており(鉄の場合もある)、貫文(かんもん)単位で計算されていた。

 金・銀・銭の三貨のうち金は主として関東を中心として東国圏で使われ、銀は京・大坂など上方を中心とした西国・裏日本で使われていた。銭は庶民が日常の買い物などに使う小額貨幣だった。この金・銀・銭はそれぞれ独立した通貨で、同一体系に組み込まれた通貨ではなかったため、これら三者の交換を円滑にするため毎日相場が立ち、その比率は絶えず変動していた。幕府は1609年(慶長14年)に金1両=銀50匁=銭4貫文という公定相場を決め、三貨がそのような相場で通用することが望ましいとしている。ただ、この公定相場は荻原重秀によって1700年(元禄13年)に金1両=銀60匁と改訂されている。

 江戸時代の通貨は、金は金座、銀は銀座、銭は銭座の特定の商人たちにその発行を請け負わせるのだ。彼ら鋳造請負人は分一(ぶいち)といって、鋳造高の何分の一といったように、一定の比率で手数料を取り、それが彼らの主たる収入になっていた。したがって、鋳造量が鋳造請負人ら商人の収入の多寡に直結していたことは確かだ。

 さて元禄の改鋳は、物価騰貴を引き起こして、果たして庶民の生活に大きな影響を与えたのだろうか。結論からいえば農民、職人、商人の生活より、厳しい影響を受けた階層があった。武士だ。武士は収入が固定していて増えないうえに、幕府の定めた規定に従って、その家禄に応じた数の家来を私費で養い、また下男・下女を一定数抱えて、家格相応の生活を保っておく義務があった。彼らの労賃が上昇しても、武家には商人・職人のようにそれを他に転嫁するところがなかったため、その被害をもろに受けたのだ。

 いずれにしても元禄の改鋳を終えた荻原重秀は、その功績もあって1696年、勘定奉行に栄進、2000石に加増され従五位下近江守に叙せられた。わずか150俵の給米取りの勘定方の下僚から出発した者としては破格の出世だった。

しかし、将軍綱吉が死亡、六代将軍家宣の代になると、事情が少し変わってくる。家宣は重秀の才能を認めていたが、執拗な重秀罷免運動に動く人物が出てきた。新井白石だ。重秀が行った銀の一方的な品位の切り下げは、上方に本拠を置く日本の巨大資本には我慢ならないことだった。そして、恐らくその意向(利害)を代弁したのが新井白石だったと思われる。1712年(正徳2年)、遂に重秀はその座を追われ、翌年死亡している。獄中で自殺したとも、殺されたとも、諸説あって定かではない。

(参考資料)堺屋太一「峠から日本が見える」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」

第十三回 貝原益軒・・・ 『養生訓』は幸福な長寿を楽しむ人の大きな指標

 実証医学の祖といわれる貝原益軒。彼が今から300年ほど前、死の前年、実に84歳で書き著した『養生訓』は、高齢者問題が重大となってきた今日、幸福な長寿を楽しもうとする人々にとって、大きな指標となっている。

 『養生訓』には飲食物の食べ方、飲み方、体のいろいろな器官の働き、住まいや衣料のあり方、排泄から入浴の注意、病時の心得、医者の選び方、薬の飲み方、鍼灸の用い方から、高齢者や幼児の養い方に至るまで-今日でいう予防医学を内容として、心と体の安定法を懇切丁寧に説いている。

 とくに老年にある人の健康法として『養生訓』の多くの部分は、今日も役立つ。何よりも精神の平静を保つことに心がけること、日々楽しみを見つけて生きること、日常の起居に激動を避けながらも、体を動かすように努めること、大食しないこと、食事を淡白にすること、熱い湯には入らぬこと、少量の酒をたしなむこと、病気になってもいきなり薬をのまないこと-などは、多くの高齢者にあてはまる。

 益軒が『養生訓』を著した当時は、体は精神の奴隷みたいなもので、心さえしっかりしていればいいなどという考え方が横行した時代だ。そんな時代に益軒は一人の人間の命は大事である。絶対にこれが人間社会の基本である-といったわけだ。体を精神と同じレベルに持っていく。そして精神と体を一つにした、一人の人間の持って生まれた体を大事にして、どこまでも健康で長生きしていく。そして本当の幸福な老後というか、一生を送らなければならないという。益軒は人生の楽しみとして、健康と長生きと、人に気を使ったりしないで自由に生きること、この三つを挙げている。これが、いろいろな項目に分かれてかかれているのが『養生訓』なのだ。

 貝原益軒は江戸時代の本草学者、儒学者。筑前国(現在の福岡県)の福岡藩士、貝原寛斎の五男として生まれた。名は篤信、字は子誠、号は柔斎、損軒(晩年に益軒)、通称は久兵衛。生没年は1630(寛永7年)~1714年(正徳4年)。

 福岡藩に仕えたが、二代藩主黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送る。三代藩主光之に赦される。藩費による京都留学で本草学や朱子学などを学ぶ。この頃、木下順庵、山崎闇斎、松永尺五らと交友を深める。帰藩後、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応を任され、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。藩命により『黒田家譜』を編纂。また藩内をくまなく歩き回り『筑前国続風土記』を編纂した。

 益軒は幼少の頃から読書家で、非常に博識だった。ただし、書物だけにとらわれず、自分の足で歩き、目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持っていた。
 70歳で役を退き、著述業に専念。著書は生涯に六十部二百七十余巻に及ぶ。主な著書に『大和本草』『菜譜』『花譜』といった本草書。教育書の『養生訓』『和俗童子訓』『五常訓』。思想書の『大擬録』。紀行文には『和州巡覧記』がある。
 
(参考資料)貝原益軒/松田道雄訳「養生訓、」杉靖三郎「日本史探訪/国学と洋学」

清河八郎・・・傲慢な性格が権謀術数に頼らせ、志半ばで死を招く

 清河八郎の元の名は斎藤元司だ。生国の出羽国庄内藩領清川村(現在の山形県東田川郡庄内町)に因んで、清河八郎を名乗ったのだ。同じように生国に因んで名乗った雲井龍雄とともに、東北から出た維新前夜の傑物だった。清河八郎の生没年は1830(天保元)~1863年(文久3年)。
 清河八郎は出羽国庄内藩領清川村の郷士の斎藤豪寿の子として生まれた。幼名は元司。諱は正明、本名は斎藤正明。贈正四位。

 1843年(天保14年)、八郎は清川関所役人の畑田安右衛門に師事し、勉学に勤しんだ。14歳のときのことだ。1846年(弘化3年)には後の天誅組総裁、藤本鉄石と会い親交を深めた。1847年(弘化4年)、18歳のとき江戸に出て古学派の東条一堂に師事。才を認められて東条塾塾頭を命ぜられたが、固辞。安積艮斎の塾へ、転塾。その傍ら、北辰一刀流の開祖、千葉周作の玄武館で剣を磨き、免許皆伝を得、江戸幕府の学問所、昌平○でも学んだ。その後、1854年(安政元年)、当時ここだけという、学問と剣術を一人で教える、清河塾を開設した。

 話は前後するが、清河八郎は1848年(嘉永1年)、東海道から京都・大坂を経て山陽地方を歩き、1851年(嘉永3年)には北陸路から中国・九州、1854年(嘉永6年)には奥州から蝦夷地を経て、常野房総の各地を遊歴。1861年(文久1年)には京都から九州、土佐にかけて遊説したのだ。この間における各地の地理的風俗の見聞や志士たちとの交際によって、彼が風雲児といわれるまでの骨格が形成されたとみられる。

 八郎が交わった人物の一部をみると、江戸では幕末の三舟で知られた山岡鉄舟、高橋泥舟、大和天誅組の安積五郎、京都では寺田屋事件の田中河内介、九州では熊本の河上彦斎、松村大成、筑前の平野国臣、筑後久留米の真木和泉守、薩摩の伊牟田尚平、越後の本間精一郎、土佐では間崎哲馬ら、ひとくせある人物ばかりだった。

 万延年間、時勢が切迫し清河八郎の塾を訪れる諸藩の志士たちとの往来が激しくなり、八郎のもとで同志が会合することも多く、その行動について幕府からも目を付けられていた。そして、偶然にも八郎が町人を無礼討ちにしたことから、幕府の捕縛の手がのびてくる結果になった。遂に八郎は公儀のお尋ね者となってしまった。

 幕吏の手が回ったのを知ると、清河八郎はすぐに山岡鉄舟、高橋泥舟の力添えで東北から越後、甲州路を経て京都に入り、志士たちの「伏見の挙兵」計画に参加し九州路への遊説に向かった薩摩の島津久光を擁して大芝居を打とうという計画だったが、「寺田屋騒動」が起こり、失敗に終わった。そこで、東国に引き返し、まもなく組み立てたのが幕府を煽り、「浪士組」を募集するという策だ。
 ひょうたんから駒ではないが、尊皇攘夷の志士に手を焼いていた幕府は、八郎が上申した策を採用し、「浪士組」募集が聞き届けられるとともに、八郎は自由の身となったのだ。ところが、予想外のことが起こった。ひとまず50名だけ尊王攘夷の浪士を募り京都へ上らせようという計画に対し、234人もの応募があり、幕府も面食らった。幕府の予算は1人宛に50両、50人で2500両ということだった。そのために予算面で大きな狂いが出てしまった。

しかし、1863年(文久3年)、ひとまず将軍(十四代将軍徳川家茂)上洛の前衛警護の目的で、八郎は盟主として浪士組を率いて京都へ出発。京都に到着した夜、八郎は浪士を壬生の新徳寺に集め、本当の目的は将軍警護ではなく、尊王攘夷の先鋒にあると説いた。これに反対したのが、近藤勇、土方歳三、芹沢鴨らだった。彼らは八郎と袂を分かち、壬生浪士となり、後に、新選組へと発展していった。近藤らを除く200名の手勢を得た八郎は翌日、朝廷に建白書の受納を願い出て、幸運にも受理された。

 こうした浪士組の動静に不安を抱いた幕府は、浪士組を江戸へ呼び戻す。八郎は江戸に戻った後、浪士組を動かそうとするが、京都で幕府と対立していたため、狙われていた。彼は幕府側の意を体した刺客、佐々木只三郎、窪田泉太郎など6名によって、麻布一ノ橋で討たれ首を斬られた。北辰一刀流、千葉周作道場の免許皆伝の腕前も、覚悟を決めた6人を相手にしては敵わなかった。享年34。
 幕末~維新にかけて、浪人志士には様々な人物がいた。だが、いずれも薩摩や長州など大藩の力を借りて志を述べている。そうするより他はなかったのだ。例えば真木和泉は長州藩を頼り、坂本龍馬は薩摩と長州の両藩を頼り、平野国臣は薩摩藩を頼っている。ただ一人、ここに取り上げた清河八郎だけが、どこの藩にも頼らない。ほんのしばらく薩摩藩に頼ろうとしたが、すぐやめている。彼は傲慢に過ぎたのだ。頭を下げることが嫌だったのだ。権勢に対する飢餓感がありながらだ。よほど傲慢だったと言わざるを得ない。

 あの時代、強力な背景なしに、志を述べようとすれば、勢い権謀術数に頼らざるを得ない。しかし、大きなバックボーンを持てない清河八郎は、そのために人の警戒心を呼び、思惑通りに事が運ばず、志を成就することなく死んだ。

(参考資料)海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」、藤沢周平「回天の門」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、司馬遼太郎「幕末」